2014年3月6日(木)霊と真理をもって(ヨハネ4:16-26)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが洗礼を受けてクリスチャンとなったのは17歳の時でした。16歳のときに聖書に出会ったのがきっかけです。
 それ以前の自分を振り返ってみると、神の存在を全く信じていなかったわけではありませんでした。しかし、その神がどなたであるのか、知りませんでした。そして、そのお方がどんなお方であったとしても、そのお方を礼拝して生きるという発想は、それまでの自分にはありませんでした。神は自分にとって都合よく利用するものでしかなかったのです。
 しかし、聖書を読み、教会へ通うようになってから、神を礼拝して生きることの大切さを初めて知りました。
 きょう取り上げようとしている個所には、礼拝を巡る会話が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 4章16節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 前回に引き続き、イエス・キリストとサマリアの女との会話から取り上げます。
 前回は、井戸水の話をきっかけに、イエス・キリストが永遠の命に至る水の話を、このサマリアの女に語り始めたことを学びました。サマリアの女がどれほど深くキリストのおっしゃりたいことを理解できたかには疑問が残ります。しかし、キリストはさらに話を続けます。

 サマリアの女が「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言ったのに対して、イエス・キリストが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃったのがきょうの個所の始まりです。

 なぜ主イエスがこの女に夫を呼びに行かせたのか、その理由は定かではありません。ただ、この一連の会話の中では、このキリストの発言をきっかけに話が新たな方向へと向かいます。少なくとも、このサマリアの女がキリストを見る目は、きょう取り上げた個所で大きく変わって行きます。

 前回取り上げた個所では、サマリアの女が見るイエス・キリストは「ユダヤ人のあなた」にしかすぎませんでした(4:9)。そして、どう見ても「わたしたちの父ヤコブよりも偉い」とは思えません(4:12)。

 しかし、夫を連れてくるようにと言い、しかも、かつては5人の夫と暮らし、今は夫でもない人と暮らしていることを言い当てたキリストのことを、「主よ、あたなを預言者とお見受けします」と言って、サマリアの女はキリストに対する評価を変えます(4:19)。
 そればかりではなく、ついには自分と話しているイエスを「もしかしたら、この方がメシアかもしれない」とまで思うようになりました(4:29)

 サマリアの女の内面に起こったこのような変化を、この一連の話の展開の中に見落としてはいけません。

 さて、ただのユダヤ人としか思っていなかった相手が、神が遣わした預言者であると思うようになったとき、このサマリアの女は長年抱いていた疑問をキリストにぶつけます。
 その疑問とは礼拝に関するものでした。現代人から見れは、つまらないと思える問いかもしれません。しかし、このサマリアの女にとって、それはとても大切な問題だったのです。世間からは後ろ指を指されるような暮らしをしていたこの女性ですが、この女性なりに神を礼拝することへの思いがあったということです。

 その礼拝についての疑問とは、礼拝を捧げる場所についての問題でした。
 ユダヤ人とサマリア人はこの問題で対立しておりました。エルサレムの神殿とゲリジム山の神殿を巡る論争は、それぞれの正統性を巡って、エジプトのアレキサンドリヤでプトレマイオスを面前にして行われたほど根深いものでした(ヨセフス『ユダヤ古代誌』13:74以下)。歴史家のヨセフスによれば、サマリヤ人はアレクサンドロス大王の許可によって、エルサレム以外の場所での礼拝が認められたとのことです(『ユダヤ古代誌』6:321-324)。そして、それがゲリジム山での礼拝の始まりであると言われています。紀元前128年頃にヨハネ・ヒルカノスによってゲリジム山の神殿が破壊された後もエルサレムに代って礼拝が持たれていました(『ユダヤ古代誌』18:85-87)。
 そういう経緯がある礼拝の場所をめぐる問題を、この女はイエス・キリストにぶつけてみたのです。

 キリストのお答えは、予想だにできないものでした。

 「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」

 それはただ単に外面的で形式的な礼拝に反対するというだけではありません。またそれは動物犠牲を伴う当時の礼拝を内面化するというだけのものでもありませんでした。聖霊が与えられるという時代のあたらしい文脈の中で礼拝が論じられているということなのです。

 終りの日に神の霊が注がれるという期待は、旧約聖書の預言者たちの期待でもありました(イザ44:3,エゼ36:24-27,ヨエ2:28-29,ゼカ12:10)。預言者がこの期待を述べるときには、偽りの礼拝である偶像礼拝からきよめられ、主のものとされるという期待が伴っていました(イザ44:5,8-9,エゼ36:25)。そうした文脈の中で、キリストの発言を理解する必要があります。

 そして、ここでキリストは「神を礼拝する時」とは言わずに「父を礼拝する」と言っていることに注意が必要です。神から与えられる霊が、神を「アッバ父よ」と呼ばせ、神から与えられる霊によって生れた者は、神の子供として神を父と呼ぶ礼拝を行うようになるのです(1:12,3:5)。

 今や、その時が到来しようとしていることを、キリストは力強く告げているのです。