2014年3月13日(木)サマリア人たちの入信(ヨハネ4:27-30,39-42)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 だれがキリスト教信仰をもつようになるのか、これは人間には予測することができません。学識の高い人ほど、聖書を良く理解し、信仰を持つようになるかと言えば、必ずしもそうではありません。物理学者や数学者など、おおよそ神の存在など信じないかと言えば、これもそうとは限りません。逆に文明が未発達なほど、キリスト教を受け入れるかと言えば、それもまた予測通りには行きません。
 キリストが地上に遣わされたとき、ユダヤ人がそれを拒絶し、サマリア人や異邦人がキリストを受け入れると、誰が予測することができたでしょうか。
 今週もサマリア人の女とイエス・キリストとの会話を通して、キリストへの信仰がサマリア人たちの間に広まっていく様子を見てみたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 4章27節〜30節までと39節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 今まで二回に分けて、井戸端でなされたサマリア人の女とイエス・キリストとの会話から学んできました。
 イエス・キリストの導きによって、話題は飲み水の話から、永遠の命に至る水の話になり、やがては、まことの礼拝の話題にまで話が発展しました。そして、ついにはメシアの話題にまで話が及びます。
 世間が知るこの女の素性から察すれば、礼拝やメシアに対する関心など、この人にあるとは思えなかったことでしょう。しかし、このサマリアの女性はイエス・キリストの話にすっかり心を奪われてしまいます。

 きょうの場面は、食べ物を買いに出かけていた弟子たちが、キリストのもとへ戻ってきたところから始まります。
 当然、見ず知らずの、しかも、サマリア人の女と話が弾んでいる様子のキリストを見た弟子たちは、驚きを隠すことができません。というのも、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、敢えて交流を持とうとすることなどなかったからです。しかし、そうだからといって、いったいどういう事情なのかをキリストに敢えて聞く者もいませんでした。

 そんな弟子たちを尻目に、サマリアの女は、汲みに来た水がめをそこに置いたまま、町に戻ります。井戸にやって来た本来の目的は、もはや、この女にとってはどうでもよくなってしまったかのようです。水は生活にとってなくてはならないものです。そうであればこそ、日中の暑い中、水をわざわざ汲みに来たサマリアの女でした。
 しかし、水よりも大切なものをイエス・キリストの内に見いだしたこの女は、人がたくさんいる町の方へ、わざわざ入り込んで行きます。そもそも、日の照りつけるお昼頃をわざわざ選んで井戸端にやってきたのは、世間の目を避けてのことでした。しかし、今は、そんな努力はどうでもよくなってしまったかのようです。自分から人々のところへ近づいて行きます。

 つまりは、それほどに、この人にとっては、イエス・キリストとの出会いは大きな出来事だったのです。町に行って人々にこう告げます。

 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

 前回取り上げた個所で、サマリアの女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」と言いました。それに対してイエス・キリストは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」とお答えになっています。もし、サマリアの女がこのキリストの言葉を心から信じたのだとしたら、町の人たちに対して「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」というような言い方はしなかったでしょう。
 言いかえれば、この時点では、このお方がメシアであることはまだ半信半疑だったのかもしれません。自分のことを何もかも言い当てたこの人のことを、サマリアの女は「あなたは預言者だとお見受けします」とは言いました(ヨハネ4:19)。しかし、話をしているこのお方が、メシアだと言われても、まだ完全には信じてはいなかったようです。

 そういう意味では、町の人たちを呼びに行ったのは、メシアと出会ったことを伝えるため、というよりは、ほんとうにこの人がメシアであるかどうかを、一緒に確認してほしいという思いが強かったからと言えるでしょう。
 「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と訳されたサマリアの女の言葉は、どちらかと言えば否定の答えを予測した疑問文です。自分では信じたい反面、しかし、そうではないかもしれない可能性も捨てきれない、半信半疑の気持ちです。

 しかし、サマリアの町の人たちは、この女性の言葉によってキリストを信じるようにと導かれます。しかも、そればかりではなく、自分たちで望んで、キリストに自分たちの町に滞在していただき、直接話を聞いて信仰を深めます。町の人達はこう言います。

 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 もちろん、その信仰の中身は、新約聖書を全て手にしているわたしたちとは知識の点では違っているかもしれません。しかし、イエスを世の救い主と信じる本質の点では変わりがありません。

 そして、何よりもこの出来事がわたしたちに教えていることは、遣わされてきた救い主は、ユダヤ人のためだけの救い主ではなく、まさに、サマリア人たちが告白しているように「世の救い主」「世界の救い主」であるということなのです。