2014年5月29日(木)イエスこそ命のパン(ヨハネ6:34-40)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「命」というと、具体的には呼吸をしている、心臓が動いているという特徴から、生きていると判断されます。逆に、これらが停止して、元に戻らない状態を「死」と呼んでいます。一般的に「命」といえば、この肉体的な命のほかには考えられません。
 しかし、聖書が「命」というときには、肉体の生死の問題ばかりではなく、魂も含めた人間存在の全体が、神の御前に生きているかどうかが問題とされます。永遠の命とは、まさにそういう命のことをさしています。そして、この永遠の命に生かされているかどうか、それこそが聖書の問題としている点です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章34節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 前回の学びで、イエス・キリストはおっしゃいました。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。

 この場合、キリストがお考えになっていた働きとは、たった一つのことでした。それは、神がお遣わしになった独り子イエス・キリストを信じることです。

 しかし、このイエス・キリストの発言に対して、ユダヤ人たちは、信じるためのしるしを求めます。彼らが期待していたしるしとは、丁度モーセが荒れ野で天からのマンナを与えて民を養ったような、そういうしるしでした。
 それに対してキリストは、天からのパンを与えたのはモーセ自身ではなく、神ご自身であったことを指摘した上で、神が与えるパンは、世に命を与えるパンであることをお教えになりました。そこまでが先週取り上げた聖書の箇所です。

 きょうはそのキリストの教えに対するユダヤ人の反応から始まります。ユダヤ人たちは、すかさずキリストがおっしゃる天からのパンをいつも与えて下さるようにと願います。おそらく彼らがイメージしていた天からのパンとは、荒れ野で与えられたマンナのような食べ物を想像していたのでしょう。

 イエス・キリストは単刀直入に、ご自分こそが天からのパン、命のパンであることを明かされます。それは、ご自分のところに来た者、来て信じた者だけが、その霊的な飢え渇きを満たしていただける命のパンです。言い換えれば、信仰がなければ手にすることができないパンです。

 イエス・キリストはユダヤ人たちの不信仰を指摘してこうおっしゃいます。

 「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」(ヨハネ6:36)

 ユダヤ人たちは先に、信じることができるようにしるしをください、とキリストに求めましたが、彼らにはしるしを与えられても信じない頑なさがあったのです。

 五千人もの人々に、たった五つのパンと二匹の魚から、食べて満腹するだけの食べ物を分け与えた奇跡の中に、命の主でいらっしゃるキリストを見出すべきはずでした。しかし、残念なことに、その奇跡が意味するものを彼らは悟ることができませんでした。

 では、誰がキリストのもとにくることができるのでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいます。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。」(ヨハネ6:37)

 「父がお与えになる人」という表現は、このあとヨハネによる福音書の中に繰り返し登場します(6:39,44,65, 10:26, 17:2,6,9,24)。この福音書は、冒頭部分ではっきりと、神の子となる資格は、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:13)と述べて、それが人間の業ではないことを強調しています。ただ父がお与えになる人だけがキリストのもとへくることができるのです。

 しかし、このことから、自分が信じないことを神のせいにして、自分を正当化することはできません。神がお遣わしになったお方、イエス・キリストを信じることができないほどに、わたしたちの罪がわたしたちの心の目を覆い隠しているのです。
 ユダヤ人たちはしるしさえ与えられれば、信じることができると考えていました。しかし、しるしを与えられても何も悟ることができないのが現実の罪人の姿です。

 むしろ、このような現実の自分の姿を知って、神に助けを求める必要があるのです。信じることができないことを神のせいにするのではなく、罪のかたくなな心を父なる神に変えていただくことこそ、求めるべきことです。そのことを謙虚に受け入れた人だけが、イエス・キリストがおっしゃる言葉の意味、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」という言葉の真意を理解することができるのです。

 イエス・キリストは、こうして父なる神によって与えられた人を確実に終わりの日に復活させてくださいます。なぜなら御子イエス・キリストを見て信じる者が皆永遠の命を得、終わりの日に復活の命をいただくことが父なる神の御心だからです。
 そういう意味で、イエス・キリストこそ永遠の命にいたる天からのパンであるということができるのです。