2014年8月21日(木)わたしはある(ヨハネ8:21-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の時代、神はその御名をモーセに教えておっしゃいました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。それは「ヤハウェ」という神の御名を説明する言葉です。
 きょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストは、ご自身に関して、「わたしはある」というこの言葉を繰り返し使われます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 8章21節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 前回の学びでは、ご自分が「世の光である」とおっしゃるイエス・キリストの言葉に学びました。そのとき、イエス・キリストは、ご自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っているとおっしゃいました(ヨハネ8:14)。
 このヨハネ福音書の中では、イエスというお方がどこから来たのか、そしてどこへ行くのかということは、とても重要なテーマの一つです。この福音書の1章の初めに、「言」(ロゴス)であるイエス・キリストは、最初から神と共にあるお方として紹介されています(ヨハネ1:1)。そして、歴史のある時点で、このお方が、肉となってわたしたちの間に宿られたと、ロゴスであるイエス・キリストのこの世への到来を語っています(ヨハネ1:14)。

 ところが、キリストを迎えたユダヤの人々にとって、そのことは必ずしも自明のことではありませんでした。すでに学んだ7章で、エルサレムの人々は、仮庵祭に上ってきたイエス・キリストについて、「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」(ヨハネ7:27)と述べていますが、それはイエス・キリストの人間的な意味での生い立ちのことを言っているのであって、イエスというお方が父なる神のもとから来た神の御子であることを知っていたのではありません(ヨハネ7:28-29)。

 同じように、祭りにやってきた群衆の中には、イエスがガリラヤからやって来られたことをあげつらって、メシアであるはずがないと主張する者もいました。ユダヤ最高法院の議員たちも、ガリラヤからは預言者はでない、と言って、イエス・キリストがメシアであることに疑いを持ちました。
 しかし、それらの議論はどれも、イエス・キリストが本当はどこから来られたのか、ということを知らないことから起こる議論です。

 そういうわけで、前回取り上げた個所で、イエス・キリストはファリサイ派の人々に向かってこうおっしゃっていました。

 「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(ヨハネ8:14)

 こういう状況でしたので、きょうの個所で、イエス・キリストが、「わたしは去って行く。……わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ8:21)とおっしゃっても、誰もその意味を正しく理解することができませんでした。むしろ、彼らの間違った予備知識で考えれば考えるほど、滑稽としか言いようのない反応が返ってきます。

 「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」(ヨハネ8:22)

 しかも、彼らはイエス・キリストがおっしゃった肝心な部分を聞き逃しています。その肝心な部分とは、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉です。

 イエス・キリストがもとおられたところ、そして、これから戻って行こうとしておられる天の世界は、罪ある者が入ることも、近づくこともできない清いところです。罪ある者は、一人として神のみもとに近づくことはできないために、この世にあって、罪のうちに滅びるよりほかはありません。この厳しい現実を、イエス・キリストはこの短い個所で、三度も繰り返して「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と語られます。

 けれども、メシアがやってこられたのは、まさにこの罪の悲惨さの中に死ぬしかない人間の救いのためです。このヨハネ福音書は3章17節でこう述べました。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 ですから、イエス・キリストも、罪の中に死ぬしかない悲惨な人間を前にこうおっしゃいます。

 「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 言い換えれば、イエス・キリストこそ「わたしはある」というお方であることを信じるならば、自分の罪のうちに滅びることはないということです。

 それにしても、「わたしはある」という言葉は、不可解な言葉です。「わたしは〜である」というのならわかります。たとえば、「わたしは命のパンである」とか「わたしは世の光である」というのであれば、それを信じるというのもわかります。
 しかしここではそうではなく、神がかつてモーセに示されたことこそ、このキリストの言葉を理解する鍵です。それは神がご自分を人々に紹介する言葉です(出エジプト3:14)。

 イエス・キリストは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ……が分かるだろう。」とおっしゃっています。最初から神と共におられ、神そのものであられた御子イエス・キリストが、肉となってこの世に宿ってくださいました。そのキリストが、十字架と復活とを通して再び父のもとにお帰りになるとき、その時、まことにイエス・キリストが神そのものであられたことを人は知るようになるのです。そして、この十字架と復活のキリストを信じることを通して、罪のもたらす死の滅びから、はじめて私たちは解放されるのです。