2014年8月28日(木)真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:31-38)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 国立国会図書館の中央出納台の上に「真理がわれらを自由にする」という言葉が刻まれています。この言葉は言うまでもなく、「国立国会図書館法」という法律の前文に出てくる言葉です。その前文にこうあります。

 「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」

 ところが、中央出納台の上に刻まれた「真理がわれらを自由にする」という日本語の言葉に並べて、ギリシア語が記されていますが、そのギリシア語と日本語は、一言違った点があります。それは、ギリシア語では「われらを」ではなく「あなたがたを」自由にする、となっています。それは正にきょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストがおっしゃった言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 8章31節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 前回学んだ個所は「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」と結ばれていました。きょう取り上げる個所は、そのイエスを信じたユダヤ人を相手に語られたキリストの言葉です。会話の展開からわかるとおり、「多くの人々がイエスを信じた」とありましたが、信じたといわれるユダヤ人たちも、実は十分な信仰を持っていたというわけではありませんでした。

 イエス・キリストはご自分を信じたユダヤ人たちに向かって、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とおっしゃいます。イエス・キリストを信じてキリストの弟子となるということは、キリストの言葉のうちにとどまることであるとキリストははっきりとおっしゃいます。

 しかし、ここでは「キリストの言葉にとどまる」ということが、具体的にどういうことを意味しているのか、それ以上の解説は語られてはいません。ただ、それがキリストの教えからそれたり離れたりすることではないことは明らかです。キリストとしっかりとつながっていることこそ、キリストのまことの弟子たちに求められていることです。

 後にイエス・キリストは、ヨハネ福音書の15章でぶどうの木と枝の話をなさいますが、そこでキリストはご自分をぶどうの木にたとえ、まことの弟子たちをそのぶどうの木にしっかりとつながっている枝にたとえられます。そして、弟子たちにこうお語りになりました。

 「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)

 この言葉から明らかなように、ぶどうの木であるキリストにつながるということは、キリストの掟を守ることであり、キリストの愛のうちにとどまることにほかなりません。では、「キリストの掟を守る」とは具体的に何をすることかといえば、キリストはこう語っていらっしゃいます。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)

 つまり、キリストの言葉にとどまり、キリストの掟に従うということは、キリストがご自分の命をささげるほどにわたしたちを愛してくださったその愛のうちにとどまって、互いに愛しあうことにほかなりません。

 イエス・キリストはさらに続けて「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいます。

 ここで言われている「真理を知る」とは、哲学的な真理や学問的な真理に到達するという意味ではありません。この福音書では、最初からイエス・キリストは神のロゴス(神のことば)として紹介されていました。それは神を示すお方、神を啓示することができる最高のお方という意味で、キリストは神の真理を余すところなく伝えることのできるお方です。そうであればこそ、イエス・キリストは「わたしは真理である」とおっしゃることができ、また「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。…いや、既に父を見ている。」とさえおっしゃることができるのです(ヨハネ14:6-7)。キリストは真理そのものであられる神をお示しになることができるお方ですから、このお方の言葉にとどまる者が真理を知ることになるのは当然です。

 では、「真理はあなたがたを自由にする」とはどういう意味でしょうか。確かに学問的な真理が人間を迷信から自由にするということはあるでしょう。しかし、ここでいう自由とは、そのすぐ後で「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とキリストがおっしゃっているように、罪の奴隷からの解放のことです。

 キリストの言葉のうちにとどまる者、キリストがご自分の命を差し出してまでも示してくださった、その愛のうちにとどまる者、その者が罪の奴隷から解放され、神の子としての自由を手に入れることができるのです。

 しかし、罪の奴隷の恐ろしい点は、自分が罪の奴隷であることにすら気がつかないことです。けれども、そのことをも気がつかせてくださるのがわたしたちの救い主イエス・キリストです。