2014年9月11日(木)永遠の命を与える主(ヨハネ8:48-59)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 世の中にはかみ合わない議論というものがあります。本質的な事柄について理解の違いがあるのに、ただ表面的な言葉だけで相手と議論しようとすると、議論がどんどんかみ合わなくなってきます。そこに人間のプライドが絡んでくると、真理を探究するための議論でもなければ、問題を解決するための議論でもなく、ただ相手を負かすだけの議論になってしまいます。

 今ご一緒に学んでいるヨハネによる福音書の8章12節以下に記された、イエス・キリストとユダヤ人たちとの議論は、まさにかみ合わない議論です。時には揚げ足取りなったり、時には言いかえすだけの議論であったり、とてもイエス・キリストの言葉をしっかりと受け止めた議論とは思えません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 8章48節〜59節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 前回の学びで、罪の奴隷となっていながら、その事実をかたくなに認めようとしないユダヤ人たちに向かって、イエス・キリストは厳しいことをおっしゃいました。

 「あなたたちは悪魔である父から出た者だ」(ヨハネ8:44)

 もちろん、そう言われれば、誰しも良い気はしません。しかし、その言葉を真摯に受け止めて、キリストと真剣に言葉を交わすことができれば、もっと違った話の展開になっていたに違いありません。

 けれども、イエス・キリストから「あなたたちは悪魔である父から出た者だ」と言われて、人々はそれを真摯に受け止めるでもなく、かといって、そうではない証拠を見せるのでもなく、ただ同じ言葉を投げ返すだけでした。

 「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(ヨハネ8:48)

 そう言うお前のほうこそ、悪霊に取りつかれている、というのならばまだしも、特定の民族の名前まで引き合いに出して、相手を侮辱する言葉を浴びせるとは、どれほど、彼らが高慢で、他の民族を見下しているかの証拠です。そのこと一つをとっても、彼らの罪深さを知ることができます。それと同時に、全く関係のないサマリア人たちを引き合いに出して、相手をののしらなければならなかったほどに、イエス・キリストが指摘したことは相手の痛いところをついていたという証拠でしょう。

 ところで、8章12節から続いてきた一連の会話の中で、イエス・キリストは一貫して一つのテーマを追いかけていました。

 イエス・キリストはご自分が世の光であること、そして、ご自分に従う者が命の光を持つことを語りました(ヨハネ8:12)。そうおっしゃるイエス・キリストの言葉の背景には、人が自分の罪のうちに死ななければならないという厳しい現実がありました(ヨハネ8:21)。

 そうであれば、こそ、キリストが願っておられることは、人々がご自分に従って命の光を持つことです。キリストは死から命へと向かうように、人々を招いていらっしゃるのです。

 一連の会話の最後となるきょうの個所でも、イエス・キリストははっきりと断言されます。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(ヨハネ8:51)

 イエス・キリストがこの世に来られたのは、罪がもたらす死からわたしたちを解き放つためでした。罪の世界にがんじがらめになっていて、自由を奪われているわたしたちに本当の自由を与えるためでした。そのような死からの解放を勝ち取るために、イエス・キリストはご自分の言葉にとどまり、これを守るようにと勧めます。

 ところが、この言葉を聞いたユダヤ人たちは、主イエスこそ偽りを言う者だと非難し始めます。なぜならアブラハムも預言者も、昔の人々はことごとく死んでしまって、誰一人として生きている者はいないからです。人が死なないということは、彼らにとって昔からありえないことなのです。だから「決して死なない」とおっしゃるキリストの言葉を偽りだと決めつけてしまいます。
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 しかし、このやり取りほどおかしなやり取りはありません。永遠の命について懸命に求めてきたはずのユダヤ人が、自分から永遠の命について否定してしまっているのです。

 それでユダヤ人たちはキリストに問い掛けます。

 「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

 この質問を発した当のユダヤ人は、おそらくその答えが何であったとしても、耳を傾ける用意はなかったでしょう。しかし、イエス・キリストはこの質問をきっかけに、長々と続けてきた会話の振り出しにかえって、ご自分がどなたであられるかということをお示しになっているのです。

 ずっとさかのぼって8章の24節でイエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 今また、キリストはおっしゃいます。

 「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

 死の力に飲み込まれてしまう人間には、誰も「死からの解放」を約束する力はありません。けれども「わたしはある」とおっしゃられるお方だけが、私たちを死の力からさえも解き放つお力があるのです。