2014年12月25日(木)命の主イエス(ヨハネ11:38-44)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 学生時代に「奇跡」というタイトルの北欧映画を見たことがあります。カール・ドライヤー監督の作品で、1955年に制作された白黒映画です。復活に対する素朴な信仰を描いた作品でした。詳しいストーリーは忘れてしまいましたが、信仰的に懐疑的なボーゲン一家に巻き起こった事件を淡々と描いた作品でした。農夫のボーゲンには三人の息子がいました。その一人は牧師になることを目指していましたが、夜な夜な家を抜け出しては風に説教したり、自分が復活のキリストだなどと言っては、奇妙な行動をとっていました。このボーゲン家の別な息子と結婚したインガーは信仰熱心な人でしたが、早産のために命をなくしてしまったのです。悲しみの中にあるボーゲンたちに対し、牧師を目指していたさっきの息子が、復活を信じるようにと力説し、亡くなったインガーが生き返るというお話です。
 こんな風に書いてしまうと、特別に面白い映画とも思えないかもしれませんが、変に技巧的なところがないだけに、復活に対する素朴な信仰を考えさせられる映画でした。わたしとしては、信仰的な疑いに閉ざされているボーゲン一家が、復活信仰への確信へと変えられていく様子や、クライマックスでインガーが生き返る場面がとても印象に残りました。
 ところが、この映画の感想をクリスチャンの友人に話したところ、実際に死人がよみがえる場面でクライマックスを迎えるなんてナンセンスだと言われてしまいました。確かに、わたしたちが生きている現実の世界では、愛する人を失った悲しみの中にあっても、なお、その失った最愛の人を取り戻すことはできません。その友人によれば、死者が実際に生き返らなくても、なお、復活の信仰を持ちつづけるところにこそ、キリスト教の復活信仰の偉大さがあるのだということでした。
 確かにその友人の言い分にも一理ありますが、最後に死者を生き返らせてしまう非日常的な場面でクライマックスを迎えさせた映画の構成に、わたしは逆に新鮮さと素朴さを感じたのでした。そして、その場面を見ながら、新約聖書にしるされたラザロの復活のことを思い起こしました。
 さて、きょうは、そのラザロの復活が記されている個所から、ご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章38節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた

 イエス・キリストは亡くなったラザロの亡骸が収められている墓にやって来て、墓をふさいでいる石をどけるようにとお命じになりました。そのキリストのお言葉に対して、ラザロの姉妹マルタが、すかさず、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えて、イエス・キリストの求めを断ります。

 このマルタの言葉には死というものの現実さが見事に描かれています。
 愛する者の姿が、時間とともに変わり果てた姿になってしまう死の恐ろしさ、むごたらしさ。そして、そういう変わり果てた姿から目をそらせたい気持ち、そのすべてがマルタの言葉に言い表されていると思います。どんなに深く自分の兄弟を愛していたとしても、腐敗から自分の兄弟を救うことが出来ないと言う、やるせなさとあきらめの気持ちが、ここには表現されています。死の前に人間がいかに無力であるかと言うことを思い知らされる場面です。

 けれども、死というものの前に、無力さとあきらめに打ちのめされているマルタに対して、キリストは再び信仰を呼び覚ますようにと言葉をかけられます。

 「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」

 確かに、兄弟ラザロが収められている墓に来る直前の場面で、マルタはキリストに促されて、復活に対する信仰を見事に告白していたのです。けれども、死者が葬られているその場所へやってきたとき、マルタは死の現実の前に、復活の信仰がどこかへ吹き飛ばされてしまったようになっていたのでしょう。そういう動かすことの出来ない死という現実を前にして、イエス・キリストは、わたしたちに復活への信仰を呼びかけていらっしゃるのです。死を意識しない何でもないときにではなく、まさに死という問題に直面し、心揺らぐときに、信じることの大切さを呼び覚ませてくださっています。

 さて、イエス・キリストは墓をおおう石を取り除きなさいとお命じになっています。当時のユダヤの墓は洞穴を利用した墓でした。

 わたしも牧師になってから、何度かお葬式をしたことがあります。納棺式から始まって、納骨式まで、一連の式の中で、死ということを何度も何度も実感させられます。特に納棺のときに、冷たい亡骸のずっしりとした重みを手に感じるときに死というものを実感します。そして、納骨式を終えて重い墓石が置かれるときに、再び死ということの現実を確認させられます。

 きっと、ラザロの墓に大きな石で蓋をした人たちの手には、石の重さや冷たさとともに、ラザロの死が実感されたに違いないと思います。

 けれども、今、ラザロの墓から石を取り除いた人たちの手は、きっと後になって、その重さを感じ取った手の感覚が、ラザロの復活をいつまでも忘れることの出来ないものにしていたのではないでしょうか。死者を葬るときに感じたのとは逆の感覚で、復活のリアリティを肌に感じたことと思います。

 イエス・キリストは、石が取り除かれた墓の前で、これからなそうとしている奇跡のために父なる神にお祈りをささげますが、その奇跡はご自分が神のもとから遣わされたことを人々に確信させるためのしるしでした。動かした墓石の重さを手で感じ、「ラザロよ出て来い」というイエス・キリストの言葉を耳で聞き、ラザロの体に巻きつけられた葬りの布を解いてやるその手の感触を体に覚えながら、ラザロを飲み込んでしまった死さえも飲み込んでしまうイエス・キリストの大きな命の業を実感したことでしょう。このラザロの復活の場面を通して、わたしたちもキリストがお与え下さる新しい命の確かさ、その現実さを味わいたいと願います。