2015年5月28日(木)イエスが去った後で(ヨハネ16:1-7)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今週も迫害について予告されるイエス・キリストのお言葉から取り上げたいと思います。迫害というと、とても怖い感じがいたします。信仰上の理由で自由が拘束され、ときには命さえも奪われてしまいかねないからです。イエス・キリストは最後の晩餐の席上で、そういう時代がすぐにも来ることを、弟子たちに語っています。できれば、迫害などない平和な時代に生きたいと願う気持ちは、誰にでもあるはずです。
 さて、こんな恐ろしい時代が来ることを告げるイエス・キリストのお言葉から、きょうも励ましと慰めとを読み取って行きたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 16章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

 今お読みした個所に、二回ほど「時」という言葉が出てきました。そこで言われている「時」とは、ユダヤ人たちがクリスチャンを迫害する「時」を指しています。ところが、このヨハネによる福音書の中には、今までにも何度か「時」という言葉が出てきました。それは、ユダヤ人の「時」ではなく、イエス・キリストが栄光をお受けになる「時」を指す重要な言葉でした。そして、このキリストが栄光をお受けになる「時」というのは、同時にキリストが苦難を受けられる「時」とも密接に結びついています。

 ヨハネによる福音書の前半部分には、何度か「まだご自分の時が来ていない」ということが告げられてきました。ところが、キリストの十字架の場面を目前にして、13章以降のところで、いよいよキリストの時の到来が告げられます。13章1節で「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と記されている通りです。

 そこで、「時」という問題を考えるとき、このキリストの「時」の支配のもとで「時」の問題を考えなければなりません。ユダヤ人たちの「時」が一人歩きを始めて、我が物顔に振舞うというのではありません。彼らがクリスチャンたちを迫害する「時」も、実はキリストの「時」の支配下にあるのだということです。キリストさえもコントロールすることができないような迫害の「時」というものはありえないのです。

 さて、イエス・キリストがここで予告されている状況は、直接には、やがて訪れるであろうユダヤ教とキリスト教の対立を思わせます。迫害の具体的な内容はユダヤ教の会堂からクリスチャンたちを追い出すというものです。

 新約聖書の使徒言行録を見ると、初期の時代のクリスチャンたちの活動の拠点は、エルサレムの神殿であったり、各地に散らばるユダヤ教の会堂であったりしました。パウロも新しい土地に伝道に行くときには、必ずその地方のユダヤ教の会堂を訪問していました。クリスチャンたちがユダヤ教の会堂から追われるようになったのは、もう少し後の時代です。ヨハネによる福音書が書かれる少し前の時代のことになりますが、ユダヤ人たちはクリスチャン摘発の手段として、ナザレのイエスを呪う言葉を、18の祈りの一つに加えました。こうして、会堂で捧げられるユダヤ教の礼拝で、この祈りを口ごもって唱えられなくなる者を会堂から追放し、ついには殺してしまうということまでしたのでした。しかも、たちの悪いことに、ユダヤ人たちはこのような措置を正当化して、自分たちは神に仕えているのだとさえ思いこむようになります。ユダヤ人たちは、このような迫害をクリスチャンたちに加えることを通して、自分たちこそ神に仕える者であるという確信を深めて行きました。

 ところが、イエス・キリストは、このような彼らユダヤ人の行動は、「父をもわたしをも知らない」という無知から来るものであることをはっきりと告げていらっしゃいます。迫害を受ける者にとって、一番の不安は、果たして、自分の確信がほんとうに正しいのかどうかという不安であると思います。特に生まれて間もない初代教会に迫害を加えてくる相手は、神を信じない人々ではなく、同じように唯一まことの神を礼拝している人々です。迫害の手を加えることに宗教的な確信を持つ人々です。そのような人々からの迫害を受けるとき、ひょっとして自分の方が間違っているのかもしれないという思いに襲われることもあるでしょう。

 けれでも、キリストは、彼らの方こそ父なる神も、父がお遣わしになったキリストをも知らないと断言されます。ユダヤ教の会堂を追放されたユダヤ人クリスチャンたちにとって、その前途は決して容易なものではなかったことでしょう。それは、単に会堂を追われると言うことだけを意味するのではありません。そうではなく、共同体からも生活の場からも追われるということを意味していたのです。路頭に迷うクリスチャンたちに、神を知っているのは迫害の手を伸ばす彼らではなく、あなたたちであるとキリストは語ってくださいます。

 さて、イエス・キリストは「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と語っていらっしゃいます。迫害は恐ろしいことですが、そのことをキリストがあらかじめ語ってくださっているのは、迫害に直面したときに、イエス・キリストの言葉を思い起こして、ゆるぎない確信を持ち続けるためでした。ヨハネによる福音書を読んだ当時の読者は、まさに、このイエス・キリストのおっしゃっていたユダヤ人の手による迫害に直面していた人々であったと思います。そのような苦しい時代に、このイエス・キリストの語られたことを思い出すことで、どれほど沢山の慰めと励ましを与えられたことでしょうか。

 もちろん、ここでキリストが語られたことをこのとき初めて耳にした弟子たちにとっては、その内容は慰めや励ましを与える言葉というよりも、かえって不安を増すものでした。そのことについては、イエス・キリストご自身、「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」とおっしゃっている通りです。

 しかし、キリストはここで、もう一度、別の弁護者である聖霊の派遣を約束してくださいます。聖霊がキリストの言葉を思い起こさせ、聖霊がキリストの語ってくださった真理を明らかにしてくださいます。事実、この福音書が書き記されたのも、迫害を経験した弟子たちが聖霊の働きに助けられたからです。