2015年7月23日(木) 大祭司の前に立つイエス(ヨハネ18:12-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 以前、不当にも逮捕されて、大変な苦しみを味わったという方からお手紙をいただいたことがあります。わたしには、事の真相を解明することなど出来ませんが、そのお話しを聞いていて、そんな経験をしたその方の苦しみを深く思いました。思い当たる理由もなく、不当な扱いを受けるということが、どれほど辛い経験か、いろいろと思い巡らせました。
 いまだに世界のあちこちで現実に起こっている迫害の問題や、第二次世界大戦中に信仰的な理由で監禁されたり命を失ったりした人々のこと、さらに遡って、殉教の死を遂げたキリシタンたちのこと、一体どれだけの人たちが不当な扱いをこの世から受けてきたのかと、考えさせられました。と同時に、この苦しみの歴史をたどっていくときに、わたしたちの目は、イエス・キリストご自身の苦しみに向かいます。多くの殉教者が苦しみのさなかで仰ぎ見たのは、ほかならないイエス・キリストご自身だったからです。
 さて、きょうは不当にも逮捕されたイエス・キリストが、最初に連れて行かれた場所で、どのような態度をお取りになったのか、聖書からご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 18章12〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

 ヨハネによる福音書には、細かいところで他の福音書には記されていない事柄がたくさん出てきます。

 たとえばイエス・キリストを捕らえる場面で、他の福音書では、祭司長や律法学者、長老たちが逮捕の場面の中心を担っています。ところがヨハネによる福音書では一隊のローマ兵が駆けつけたと記しています。ローマの兵隊までが登場してイエスの逮捕にかかわったと言うのです。

 イエス・キリストを捕らえた彼らは、主イエスを縛り上げたとヨハネ福音書は報告しています。これも、他の福音書では明確に記されていない事柄です。もちろん、逮捕されたのですから、縛られるのは当然のことかもしれませんが、他の福音書ではユダヤ人の最高法院からローマ人の総督ピラトのもとに引き渡されるまで、イエスが縛られていたということには言及していません。ヨハネによる福音書は、ローマの兵隊が荷担していたことや、むごたらしくもキリストを縛り上げてしまうことなど、事柄の不当性を余すところなく書き綴ります。

 さて、その逮捕されたイエス・キリストが最初に連れて行かれたところは、ローマ総督のところではありませんでした。ローマの兵隊まで動員して逮捕したにもかかわらず、連れて行かれた先はユダヤ人たちのところでした。その事実からして、このイエス逮捕という出来事が、ローマの人たちの仕業ではなく、その陰に暗躍するユダヤ人たちの陰謀が色濃く暗示されています。

 さらに、驚くべきことに、ヨハネ福音書は、最初にイエス・キリストが連れて行かれた場所についても、他の福音書にはない、独特の記事を残しています。それは、ときの大祭司カイアファのもとではなく、カイアファのしゅうと、アンナスのところであったと言う事です。裏で実権を握っている存在がいたことをほのめかしています。

 ここまでの記事を読むと、イエスという一人の人物を逮捕するために、この世の権力者たちがどれほど用意周到に、しかし、その奥底にある人間的などろどろとした思いの中で事柄を運んできたのかということが見事に描き出されます。特に、大祭司カイアファがかつて口にした言葉、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」という言葉が回想されている点が印象的です。

 さて、大祭司の前での審問について、18章19節以下でヨハネ福音書はその様子を記します。ここでも、ヨハネ福音書は他の福音書とは違った書き方をしています。言葉の主導権は、完全にイエス・キリストの側にあるという印象を与える書き方がなされています。イエスを審問する大祭司の言葉は完全に省略され、自分の潔白さを堂々と語るキリストの姿が浮き彫りにされています。

 他の福音書では最高法院での審問の様子が詳しく記されているのに、ここではもはやこの審問が対決の場でさえなくなっている印象を与えています。

 「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と考えて、最初からイエスを処刑する腹積もりでいる人間的なこの世の人々思いと、自分から十字架の道を歩もうと決意されたイエス・キリストの輝かしい姿が印象深く描かれています。

 キリストの逮捕、裁判、十字架での処刑という一連の出来事は、人間的な側面から見るときに、人間の汚い策略としか見えてこないこの出来事を、ヨハネ福音書は勝利者であるイエス・キリストの栄光への旅立ちとして描いているのです。その観点に立つとき、わたしたちは信仰の故に味わう様々な苦しみの中から、「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とおっしゃるイエス・キリストのお言葉を噛み締めることが出来るのではないかと思います。