2015年8月13日(木) イエスは王(ヨハネ18:33-38a)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネによる福音書が記すキリストの裁判記事で、特に面白いと感じられるのは、裁判官役のピラトが、ユダヤ人指導者とイエス・キリストとの間を行ったり来たりしているという点です。ピラトが建物を出入りしなければならないそもそもの理由は、ユダヤ人たちの宗教的な理由で総督官邸の建物の中に入ることができなかったからです。
 しかし、そのピラトの姿は、まるで、事件を裁きかねて決断を迷うピラト自身の内面を描いているようにも受けとめることが出来る面白い構成になっています。あるときにはユダヤ人の側に立ち、またあるときはイエスの側に立ち、風に揺れ動く葦のようにピラトの内面が揺れ動いているように感じられます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 18章33〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」

 先週学んだ個所の最後の言葉はこう結ばれていました。

 「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 イエス・キリストを十字架にかけて処刑するために、ユダヤ人の指導者たちは、躍起になってピラトのもとへ訴え出ました。しかし、ヨハネ福音書の記者は、この裁判の主導権を握っているのは、ユダヤ人の指導者ではなく、まるでイエス・キリストご自身であったと述べているかのようです。つまり、主イエス・キリストがもうずっと前に「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」(ヨハネ10章18節)とおっしゃっていた通りです。

 きょう学ぼうとしている個所でも、裁判を主導しているのは、一見、総督ピラトのように見えるのですが、いつしか、どっちがどっちを審問しているのか分からなくなってしまいます。

 さて、ピラトがイエスに対して最初に問いただした質問は、「お前がユダヤ人の王なのか」という質問でした。ユダヤ人の指導者たちとピラトの間にどんなやり取りがあったのか、ヨハネ福音書は詳しいことを記してはいません。先週学んだ個所には、ピラトがユダヤ人たちに対して、イエスの罪が何かということを尋ねたのに対して、彼らは具体的に何も答えなかったばかりか、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」といういい加減な返事をしたことが記されています。

 もちろんそれだけのいい加減な返事で、ピラトは事件を取り上げたりはしなかったでしょう。ヨハネ福音書には書かれてはいませんが、ルカによる福音書が記しているようなやり取りが、ピラトとユダヤ人指導者の間にあったのかも知れません。

 ルカによる福音書には、ユダヤ人たちがイエスをピラトのもとに訴えでた理由をこう記しています。

 「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(ルカ23:2)

 それを受けて、ルカ福音書に記されているピラトはイエス・キリストに対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。

 ここで、イエス・キリストは政治的な犯罪者として訴えられています。ローマ皇帝に反逆し、納税を拒絶して民族独立をうたうユダヤ人の王として、告発されているのです。ピラトがなした最初の尋問・・「お前がユダヤ人の王なのか」という問いには、そういう背景があります。

 では、この質問に対して、イエス・キリストは実際にどうお答えになったのでしょう。四つの福音書に共通していることは、イエス・キリストご自身、明快な答えを避けていらっしゃるということです。

 最初の三つの福音書には「それはあなたが言っていることだ」と記されています。それは、「あなたの言っている通りだ」と肯定的にも取れますし、また、「それはあなたが勝手に言っていることだ」と否定的にもとれるあいまいな返事です。

 主イエス・キリストご自身が、ユダヤ人たちが仕掛けた巧みな罠にかからないように、明確な答えを避けていらっしゃるのです。しかし、それとは逆に、わたしたちはイエスを誰というのか、という問いかけにもなっているのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書にはもう一歩踏み込んで発言されるイエス・キリストの言葉がさらに記されています。

 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 主イエス・キリストは、ユダヤ人指導者たちが訴え出ているような意味での、王でもなければ政治的メシアでもありません。この世の権力によって維持されるような国の王であるとすれば、何よりもイエスに従う弟子たちが、自分たちの王が引き渡されないように武力で戦いを挑んだはずだと言うのです。けれども、この世に属さない「わたしの国」について言えば、イエス・キリストは現に「わたしの」と言い得るような国を治める王なのです。

 福音書記者のヨハネが、この福音書の読者の悟らせたいことは、イエス・キリストこそこの世の国に属さないまことの王であるということなのです。ピラト自身もキリストご自身によって、イエスとは誰なのか、と言う本質的な問題に目を留めるように問われているのです。

 主イエス・キリストが世俗の王ではない、したがってローマ帝国に対して反逆の意思を持った存在ではないというだけでは、イエス・キリストのことを知ったことにはなりません。このお方の語る言葉に耳を傾け、真理の声に聴くとき、この裁判では明らかにし得ない、キリストの本質的な姿と出会うことが出来るのです。