2016年1月28日(木) 教会内での差別の現実(ヤコブ2:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 差別はいけないことだ、という考えは、ほとんど普遍的な考えであるといってよいと思います。しかし、実際には差別のない社会はほとんどありません。

 以前、こんな意見を耳にしたことがあります。

 「アメリカのような人種のるつぼと呼ばれる国なら、人種差別が起こるのも当たり前だが、日本は単一民族なので、そもそも人種差別など起こりえない」

 ここには大きな間違いが二つあります。一つは、日本が単一民族だという認識の誤りです。たとえば、アイヌ民族の問題をその人はどう考えているのでしょうか。あるいは、日本に帰化した外国人は少なからず居ますから、日本国籍を有する人が単一民族だなどとは言えないのが現実です。まして、今となっては日本には数多くの外国籍の人も居ます。日本に住む人々が単一民族だなとと思い込んでいるところに、現実を見ようとしない恐ろしさを感じました。

 もう一つの誤りは、単一民族だと人種差別が起こらないという認識です。かつて日本では外国籍の人のことを「異人さん」と呼んだ時代がありましたが、その呼び方自体がある意味差別的です。自分たちとは異なった人という見方が、やがては差別を生み出していきます。こういった他人に対する独特の名称は、多様な民族、多様な文化に慣れ親しんでいない人ほど強く出てきます。自分との違いを強く意識すればするほど、それが相手への憧れにもなり、反対に、相手への軽蔑にもつながってきます。

 さらに言えば、さっきの発言には、アメリカで起こっている人種差別に対する認識はあっても、日本で起こっている人種差別に対しては、認識も関心も感じられません。そのことがとても残念です。この無知と意識の低さこそが、差別の温床であることに全く気がついていないようです。

 そもそも差別というものは、差別されて初めて気がつくものです。つまり、差別の恐ろしさは、差別している側には、それが差別であるという認識がほとんどないことです。それだけに差別問題は根が深いのです。

 きょう取り上げる聖書の個所にも差別の問題が出てきます。しかも、それが遠い世界の話としてではなく、まさに自分たちの集まりの中での問題として指摘されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 2章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

 ヤコブはここで「人を分け隔てしてはなりません」と読者に命じています。

 そもそも人を分け隔てすることが、なぜいけないことなのでしょうか。その前提には、人はみな全て平等であるという考えがあります。この平等意識は、キリスト教の世界観・人間観では明白なことがらです。なぜなら、人は皆、神によって、神のかたちをもった尊厳ある存在として造られた、という教えがあるからです。

 もちろん、その一方で、誰一人として同じ人間はいないということも真実です。地球上には様々な人種がいることは否定できません。同じ人種の人間でも、スポーツに優れた人間、学問に優れた人間、芸術に優れた人間と、様々なタイプの人間がいます。人を分け隔てしないということは、この多様性を無視したり否定したりするということではありません。むしろ、誰一人として同じ人間がいないほど、多様な人間社会でありながら、しかし、同じ人間として等しく扱われるに値する一人ひとりであることを認めることが、分け隔てをしないということの根本です。決して、すべての違いをなくしてしまうことが、分け隔てをしないことではありません。

 そして、才能の違いから、様々な違った人生が生まれてきます。違った人生を生み出すのは、才能の違いだけではありません。体の健康も、機会との巡り合いも、違った人生を生み出していきます。言い換えれば、違っているのが当然であるのが人生です。しかし、結果として現れた人生の違いに対してランク付けをし、低いと思うランクの人間に対しては、他のランクの人間とは違った軽蔑的な扱いをすることが、差別であり、人を分け隔てすることです。違いは違いとして受け止め、しかし、それにもかかわらず、一人の尊厳ある人として接し、他の人と変わらない敬意を抱くことが、人を分け隔てしないということです。

 さて、キリスト教の教えから簡単に導き出せるはずの事柄でありながら、あえてヤコブはこの問題を取り上げています。しかも、例として挙げた事例は、あまりにも露骨な事例です。例として挙げた事柄ですから、わかりやすい極端な例だといってしまえば、それまでのことです。

 果たして、ヤコブは実際には教会内では起こりえないような極端な例を出して、人を分け隔てするとは、このようなことだ、といっているのでしょうか。もしそうだとするなら、あまり説得力のあることではありません。そんなことは、誰だってしないし、まして教会ではありえないことだ、と思ってしまうからです。

 むしろ、教会の内で起こりうることだからこそ、あえてこのような例を持ち出してるのではないか、とさえ思えます。

 たとえば、教会への貢献が期待される人と、まったく教会に対して貢献が期待されない人間が同時に教会にきたときに、果たして、それぞれの人に接する態度と時間は同じでしょうか。

 いえ、そもそもこの問い自体が差別的だといわれてしまうかもしれません。なぜなら、「教会への貢献が期待される人」と「まったく貢献が期待されない人」という区別を最初から設けているからです。

 では、見方を変えて質問をしますが、どんな来会者に対して、より多くの時間を費やし、より丁寧に接しているでしょうか。まったく教会への貢献が期待されない人ほど、ぞんざいな扱いを受けてはいないでしょうか。

 同じ敬意と愛をもって接することができないとしたら、そこにはすでに差別が忍び寄っています。

 ヤコブは「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」そのような態度をとることに対して、強く警告しています。このことが、信仰の根幹にかかわるからです。それは、人を尊厳あるものとして創造された神に対する冒涜であるばかりではなく、人を愛して救おうとされる神の救いをも否定することにつながるからです。