2016年2月11日(木) 憐みは裁きに勝つ(ヤコブ2:8-13)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ルカによる福音書の中に、罪を赦された女性がイエス・キリストの足に高価な香油を塗った話が出てきます(ルカ7:36-50)。キリストはこの女性のしたことは、罪赦されたことへの感謝を愛という形で表現しているのだ、と理解されました。感謝の気持ちが大きければ、愛する気持ちも大きくなるからです。

 また、マタイによる福音書には、莫大な借金を抱えた王の家来のたとえ話が出てきます(マタイ18:23-35)。この家来は王から多額の借金を帳消しにしてもらいながら、残念なことに感謝の気持ちをいだくことがありませんでした。その結果、自分にわずかな借金のある仲間を赦すことができませんでした。

 この二つの話は決して関連のない話題ではありません。罪を赦していただいた者が、その恵みに応えてどう生きていくのか、この二つの話はそれぞれポジティブ・ネガティブ、両方の側面からそのことを描いています。

 ヤコブがこの手紙を書いているのは、すでにキリストによって罪赦され、救われた人たちに対してです。これから、何かなすべき条件を満たして救われるようにという勧めではありません。救いをいただいた者が、その恵みにふさわしく生きるとはどういうことなのか、その点にヤコブは心を砕いています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 2章8節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

 ヤコブは2章の初めから差別の問題を取り上げてきました。最初の取り上げ方は、あたかも現実の話ではなく、仮定の話として、話題を提供しました。

 「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。」

 ここで取り上げたのは極端な話です。現実の教会で、ひと目でお金持ちと分かる人と、いかにも貧しい人とが、同時に初めての来会者としてやってくることなどほとんどないでしょう。明らかに話を分かりやすくするための極端な例です。

 しかし、極端な話であったとしても、ヤコブが気づかせたい教会の現実の姿は、差別の全くない世界では決してありません。教訓を引き出すためのただの話だと思って読み進めていると、ヤコブは「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」とその罪を指摘します。

 ヤコブの手紙は特定の教会に宛てて書かれた手紙ではありませんから、どこかの教会で起こった具体的な差別を問題としているわけではないでしょう。しかし、差別が起こる危険性を漠然と指摘しているというのでもなさそうです。例話に挙げたほど極端ではないにしても、心の中の差別意識が何らかの形で態度となって表面に出てきてしまっている、ということでしょう。そうでなければ、ただ心の中のまだ表面化していない差別意識を「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」とまで言い切ることはできないでしょう。

 きょうの個所は、そのことを受けての展開です。ここでもまた「もし」という書き出しで始まっています。一見、「もし、仮にこうであったならば」という仮定の話をしているようにも取れなくはありません。しかし、仮定でものを言っているのだとすれば、このような手紙を書いている意味がありません。そうではなく、先ほども述べたとおり、心の中にある差別意識が、具体的な形をとって表面化してきているのでしょう。しかも、そのことが無自覚のうちに行われるのが、差別の罪の厄介なところです。教会内で差別が自覚的に行われているのだとすれば、それは論外です。ヤコブが問題としている差別は、むしろ、無自覚のうちに行われる差別でしょう。

 教会というところは、善意に満ちたところです。少なくとも、意図的に悪い方向へ向かおうとはしないものです。たとえ完ぺきではないとしても、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しようとしている人々の集まりであることは間違いありません。ヤコブはこの手紙を読んでいる人たちがそのような善意に満ちた人たちであることを否定しません。

 しかし、そうであればこそ、罪に対する意識が研ぎ澄まされなければ、教会全体が気がつかないうちに罪の深みにはまってしまいます。

 旧約聖書に慣れ親しんできたこの手紙の読者たちにとって、差別そのものが神の律法によって禁じられていることを、今更学ばなければならない人は、一人もいなかったことでしょう。問題なのは、自分たちのしていることが差別と結びついているという自覚のなさです。

 「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」といった戒めに関しては、だれもが注意深く考え、行動をとっています。自分の思いや言葉や行いが、これらの罪と結びついていないか、自覚的に考える機会も多くあるはずです。

 しかし、差別というのは、意図的に行うよりも、無自覚の結果生まれることの方がはるかに多いものです。人を分け隔てすることはいけないことだとわかっていても、自分の行動が差別であることには気がつきにくいものです。どんなに他の戒めに関して、自覚的に取り組んだとしても、この無自覚な罪のために足をすくわれてしまいかねません。

 神の律法は有機的に関連しあっています。どれか一つを完ぺきに守ればよい、というものではありません。また、どれか一つを取り出して守れるようなものでもありません。神の律法は有機的に関連しているために、一つの欠けも、全体に影響を与えてしまいます。差別の問題だけ、別扱いすることはできません。

 では、この無自覚のうちに生まれる差別の問題を、どう自覚し、克服できるのでしょうか。

 ヤコブは「憐み」ということを持ち出して、こう語ります。

 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

 ここでいう「憐み」とは、神がわたしたちを憐れんでくださったことが前提にあります。その神の憐みをいつも心に留めるとき、どう人と接するかということの中にも自覚の変化が起こります。神がわたしたちを憐れんでくださったという事実を念頭に置いて生きるとき、隣人を心から思い、大切に扱うことへと導かれるのです。神の憐みを自覚して生きるとき、無自覚な差別意識から解放され、裁きからも解き放たれるのです。