2016年3月3日(木) 聖職者に求められること(ヤコブ3:1-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本の教会では、何年も前から牧師の不足が言われています。牧師のなり手が少ないために、定住の牧師がいない教会が増えています。そういう時代には、だれかれとなく、牧師になってほしいと願いそうなものです。しかし、それにもかかわらず、実際には、牧師志願者が全て牧師になれるというわけではありません。

 様々な面で、牧師としての資質があるかどうかが試され、ふるいにかけられます。

 きょう取り上げようとしている個所には教会の「教師」に関する言葉が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 3章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

 きょう取り上げた個所のうち、特に3章1節は前後の文脈とどういう関係にあるのか、いくつかの解釈の余地がありそうです。ここから新しい主題が始まると考えるとらえ方が一つあると思います。確かに、ここから3章が始まるわけですから、新しい主題の始まり、ととることもできます。

 その場合考えられることは、教師の職に就こうと願っている者たちの数が多い、という現状がその背景にあったのかもしれません。

 しかし、聖書の章立ては、著者自身がつけたものではなく、後の時代の人が便宜的につけたものですから、ここから新しい主題の新しい章が始まると、手紙の著者であるヤコブ自身がそう考えているかどうかは別問題です。

 むしろ、新しい章の始まりではなく、今まで述べてきた事柄から結論されることとして、「多くの人が教師になってはなりません」という禁止命令が引き出されたのかもしれません。

 その場合、このことが言われる背景には、教会の教師は、誰もがなってみたいと思う憧れの職であったということが考えられます。ユダヤ教のラビ(教師)に対する尊敬、またそこからくるこの職業の栄誉を考えると、教会の教師に対する評価も高かったと考えることは、決して過大な評価ではないでしょう。

 ヤコブは、今までキリスト者のあるべき姿を示しながら、教会の現実の姿を描いてきました。それはもちろん、教会に対する単なる批判ではありません。神の御言葉に沿った生き方を願ってのことでした。

 1章19節でヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と勧めました。けれども、それは、聞くのは早くて、話すのと怒るのが遅ければ、それでよいというものではありません。そのことを発展させ、積極的に言い換えて、聞くだけではなく「御言葉を行う人になりなさい」とヤコブは勧めました(ヤコブ1:22)

 しかし現実は、御言葉を行っているというには程遠い教会の姿がありました。そこには差別があり、知識だけの信仰があり、聞いた御言葉と現実の行いとの間でギャップがありました。

 きょうのヤコブの言葉は、そうした事柄を踏まえての発言です。

 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」

 この手紙の中でヤコブが「わたしの兄弟たち」と呼びかけるときには、これから述べようとしていることに、特別な注意を促そうとしているときです。

 しかし、ヤコブは決して自分を棚に上げて、上から目線でこのことを語っているのではありません。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになる」と語って、自分を含めて、教師がより厳しい裁きを受けるべき存在であることを自覚しています。

 さらにヤコブは、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからだ」とさえ述べています。この場合の「わたしたち」というのは、「わたしたち教師」の意味ではなく、この手紙の読者たちも含めた「わたしたち」という意味でしょう。自分すら例外ではない人間の弱さを熟知した発言です。

 とりわけ教会の教師の言葉は、重大な影響を与えます。そうであれば、言葉による過ちは、信徒が語る言葉以上に大きな躓きを与えます。

 言葉や舌の問題は、この手紙の中で、すでに二度取り上げられました。1章19節では「話すのに遅いように」と勧め、同じ1章の26節では「舌を制することができず、自分の信心を欺くなら、そのような人の信心は無意味だ」と書きました。一信徒でさえそう言われるのであれば、教える立場の人間がどれほど、言葉に気を付けなければならないかは言うまでもありません。

 ヤコブは、この言葉による災いを、二つのたとえで示します。一つは馬を制御するくつわのたとえ、もう一つは船の舵のたとえです。どちらも小さな道具ですが、大きな馬を制御したり、嵐の中を進む船を意のままに操ることができます。そういう意味で、舌も同じです。しかし、その操作を誤れば、大変な事態を招きます。

 この舌にかかわる災いについては、3章6節以下にもまだ続きます。6節以下については、次回取り上げることにして、ヤコブは結局教師の働きについて、どういう結論を出したかったのでしょうか。

 ヤコブは「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人だ」(3:2)と言いますが、しかし、自分を含めた教師が、他の人よりも厳しい裁きを受けること、また自分を含めたすべての人が、度々過ちを犯すものであることを自覚しています。特に言葉の点で教師には重い責任があることも知っています。

 だから、誰も教師にはなれないとは言いません。「多くの人が教師になってはなりません」と命じています。自分が教師を志す場合も、また誰かを推薦する場合も、誰もが罪人であって完ぺきではないからこそ、慎重に吟味することが求められているのです。