2016年3月17日(木) 知恵ある生き方の勧め(ヤコブ3:13-18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 妬みや利己心がよくないものであることは、だれもが認めていることです。しかし、妬む気持も利己心もなかなか克服することができないのが現実です。意図して妬んだり、わざと利己的になるというよりも、知らず知らずのうちに妬みを抱いたり、気がつけば利己心が頭をもたげてくるからです。

 同じように偏見を抱いたり、偽善的になったりするのも、意図的であるというよりは、自覚のないままにそうなっているというのが実情です。「きょうから偏見をもってやるぞ」と自分から偏見を持つことを決意する人はまずいません。「明日から偽善者になろう」といって偽善に走る人もいません。本人に自覚がないからこそ、厄介な問題を引き起こします。

 きょう取り上げようとしている箇所には、こうした事柄が扱われています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 3章13節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

 この手紙の3章のはじめに「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」という言葉がありました。教会で教える立場にある者たちには、より大きな働きとそれにふさわしい資質が求められているからです。その一つとして、言葉に関する管理能力をヤコブは取り上げました。教会の教師は教える立場という意味で、言葉と深くかかわる仕事です。しかし、ヤコブがここで言葉のことを取り上げたのは、語る言葉の明快さや雄弁さという意味での資質ではありませんでした。そうではなく、言葉がもたらす災いの問題でした。どんなに明快で雄弁な言葉を語る人であっても、些細な言葉で相手をつまずかせてしまっては、もとも子もありません。

 その教師の資質の話題が、この手紙のどこまで続くのか判然とはしませんが、きょう取り上げた箇所も、ある意味で「多くの人が教師となってはならない」ことと関係しているのかもしれません。

 確かに、言葉を管理する能力は、人をつまずかせないために大切なことです。しかし、考えても見れば、言葉は心の鏡とでも言うべきものです。心にないことを人はうっかり口にすることはありません。むしろ、うっかり口にしてしまうことは、心の中にすでに存在する思いです。逆に心にもないことをあえて言うのは、お世辞であったり、へつらいであったり、そういう類のものは、別の思いが心にあって、その思いを違った形で表現しているに過ぎません。

 そうであるとするならば、心を清くたもつ知恵こそ、言葉の管理に大切ということができます。

 ここでヤコブはさらに筆を進めて、知恵の問題を取り扱います。

 そもそも教師とは知者であるべき人です。その場合の知者とは、単に知識のある人という意味ではありません。ヤコブは「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」と問いかけます。それに対して、ヤコブは、「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示す人」、その人こそ知者にふさわしい人であると考えます。

 先にヤコブは、信仰と行いが不可分であることを述べました。ここでは、知恵と行いが表裏一体のように描かれます。知恵は具体的な生活の中で実を結びます。「立派な生き方によって」と言われると、大げさな印象を受けるかもしれません。ヤコブが言う「立派な」というのは必ずしも「目を見張るほど見事な」という意味ではありません。むしろ16節で言われている「混乱やあらゆる悪い行い」を生み出すような生き方に対して、「知恵にふさわしい柔和な行い」を生み出すような良い生活のことをヤコブは語っています。

 まことの知恵がもたらす生き方は、柔和を伴う行いに実を結びます。イエス・キリストは山上の説教の中で、柔和な人たちの幸いを説きました。日本語の「柔和」の意味は、やさしく、穏やかで、とげとげしていないということです。ヤコブは「柔和」という言葉を、ねたみ深さや利己心や、自慢、真理に逆らう嘘、混乱、悪い行いといった事柄に対峙するものとして語っています。

 この「柔和」という言葉を理解する上で大切なことは、聖書がいう「柔和」は、そのやさしさや穏やかさが、どこから来るのか、という点にあります。それは圧迫され、苦しみを経験した後に、神にのみ信頼に置くことから出てくるやさしさ、穏やかさです。

 その意味で、柔和の対極にあるものは、ことごとく「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」と呼ばれます。

 神に心から信頼を置く者にとっては、それ以上自分の利益を求める必要はありません。必要なものはすべて神から与えられると信じて、神に信頼しているからです。

 逆に神に対する信頼が揺らぐときには、自分で自分を守ろうとして、利己的な思いが心を支配していきます。

 自慢もそうです。神に信頼し、すべてを知られていると信じるならば、自慢すること自体が意味のないことです。他人が自分をどう低く評価しようと、それに自慢で対抗する必要がありません。

 しかし、この神への信頼が揺るらぐときに、人は穏やかさを失い、人に対する優しさを失っていくのです。

 ヤコブが求める知恵のある生き方とは、結局のところ、信じたとおりに、このお方に信頼し、このお方にすべてを委ねていく生き方です。その信仰が、具体的な生活の中に、柔和を伴った行いに実を結んでいくのです。

 そして、このことは誰よりも教会の教師に求められている資質です。