2016年5月26日(木) 新たに生まれる恵み(1ペトロ1:3-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の読み方にはいろいろあるかもしれません。それは、その人がどんな動機や目的で聖書を読もうとしているのかによって違ってきます。しかし、聖書に限らず、どんな書物でもそうですが、その書物を書いた著者にとっては、いろんな読み方で、自分の書いた書物から好き勝手な結論を引き出されるのでは、たまったものではありません。

 聖書を読む上で大切なことは、神はどんなことをなさったか、ということを読み取ることです。そして、そこから、神はどういうお方として、ご自身をわたしたちに表そうとしているのか、そのことを理解することが大切です。

 それから、もう一つ大切なことは、その聖書の個所が、わたしたちをどう描いているのか、ということを知ることです。また、その個所で、神はわたしたちにどんなことを期待したり約束したりしているのか、そのことを読み取ることも大切です。

 きょうも、ペトロの手紙から、聖書の神とわたしたちについて読み取っていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章3節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

 今、お読みした個所は、ペトロの第一の手紙の冒頭部分です。前回学んだのは、手紙の書き出しでした。そこには、手紙の差出人が誰であるのか、受取人が誰であるのか、そして、それに続いてあいさつの言葉が記されていました。

 きょうの個所は、それに続く部分で、ペトロはまず神をほめたたえる言葉をつづります。1章の3節から5節までを読みましたが、3節から5節までが一つの文章です。長い文ですので、新共同訳聖書では、三つの文章に分けて翻訳しています。この長い文章の中心は、いうまでもなく「神が、ほめたたえられますように」という神を賛美する言葉です。

 ペトロはこの神について、「父である神」と呼んでいます。旧約聖書の中にも「父」である「神」の姿は皆無ではありません。預言者イザヤは神に対して「あなたはわたしたちの父です」(イザヤ63:16)と語り、「主よ、あなたは我らの父」(イザヤ64:7)と呼びかけています。しかし、新約聖書に比べれば、神を父と表現する個所は、旧約聖書では圧倒的に少ないと言わざるを得ません。

 けれども、確かに新約聖書の中で、神はわたしたちの父と呼ばれますが、わたしたちの父である前に、イエス・キリストの父であると表現されます。神はイエス・キリストと特別な意味で「父」であるお方です。

 きょうの個所でも「主イエス・キリストの父である神」と表現されています。

 わたしたちが神を父と呼ぶことができるのは、この神の御子であるイエス・キリストを通して、信じるわたしたちもまた神の子とされたからです。

 そのほめたたえられるべき神は、なぜほめたたえられるべきお方なのでしょうか。ペトロは神がしてくださったことをこう語ります。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださった」

 「神はわたしたちを新たに生まれさせてくださった」

 この表現の背後には、わたしたち人間が、本来のあるべき姿から堕ちてしまい、行き詰った状態であるということが暗示されています。今現に生きているのであれば、ふたたび生まれさせたり、新たに生まれさせる必要はないでしょう。そのままでは生きた屍としか言えないような罪の悲惨な状態から、神は再びわたしたちを命へと生まれさせてくだったという意味です。

 この「新生」あるいは「再生」の向かうべき方向をペトロは二つ挙げています。一つは希望へと向かってわたしたちを再び生み出した、と言われます。それもただの希望ではなく「生き生きとした希望」と表現されます。「生き生きとした希望」というのは、「死んだ希望」と対比されるものです。そもそも死んだ希望というのは、言葉の矛盾です。生きた希望だからこそ、期待できるものです。その希望がほんとうに期待に値する生きた希望であることを、神はキリストの復活によって保証してくださいました。

 この「新生」あるいは「再生」の向かうもう一つの方向をペトロは、財産の相続と表現しています。イエス・キリストと共に神の国の遺産を受け継ぐものとして、神は、信じるわたしたちを新たに生まれさせてくださったのです。

 この世には失望しかないとしても、神は御国の大きな財産を、ご自分を信じる者に相続させようとしてくださっています。そのために、神はわたしたちをあらたに生まれさせてくださいました。

 この恵みに溢れる父なる神に、ペトロは「ほめたたえられますように」と賛美と誉と栄光を帰しています。

 最後に、この生き生きとした希望に向かって新たに生まれさせ、神の国を受け継ぐ者とされたわたしたちのことを、ペトロはこう記しています。

 「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」

 この一文の中心点は、「神の力に守られている」という点です。

 生まれ変わりはしたものの、この世の荒波に放置されてしまうのではありません。神の力に守られているわたしたちです。そして、その神の守りの力は、信仰という器によってだけ受け取ることができるものです。

 神は希望の実現するその日まで、信仰を通して神の力をわたしたちに与え続けてくださいます。