2016年6月9日(木) わたしたちのために用意された救い(1ペトロ1:10-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教を伝えるときに、繰り返し尋ねられる質問の一つに、こういうのがあります。それは、イエス・キリストがやってくる前の時代の人たちは、キリストを信じることができなかったので、救われることはないのか、という疑問です。その疑問は、形を変えてこう聞かれる時もあります。それは、キリスト教が日本に伝わる前に亡くなった人たちは、キリストを信じることができないので、救われることはないのか、という疑問です。

 どちらの疑問も、純粋な関心から出た質問という場合もあれば、ただ単に、揚げ足を取りたくて、意地悪な質問をしているだけの場合もあります。

 キリストを信じることができなかったのだから救われない、という杓子定規な教理の適用も、逆に神は最終的にはすべての人が救われるよう決めておられるという万人救済の教えも、どちらも人間が頭で出した結論です。人間が出した結論には、今はどちらも納得がいかないでしょう。しかし、ただ一つ言えることは、すべてのことが明らかにされる世の終わりの審判の時には、すべてのことが明らかにされるというばかりではなく、そのことが明白に示されるので、少しの疑問も残らないということです。

 それよりも、今神が求めていらっしゃることは、福音を聞くチャンスを与えられたわたしたちが、それにどう応えるのか、という自分の応答の問題です。何よりも、福音を聞く機会が与えられた、ということ自体が、大きな恵みであることを認識することが大切です。

 きょう取り上げる個所には、今わたしたちが耳にしている福音を聞く機会が、以前の時代の人々にとってどれほど関心の高いものであったのか、そのことが語られています。福音を耳にし、その実現を目にすることができる恵みの時代にわたしたちが置かれている恵みをおぼえながら今日の個所を取り上げたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章10節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。

 きょう取り上げた個所は、先週取り上げた個所からひとつながりになっている文です。先週取り上げた1章9節はこういう言葉で終わっていました。

 「あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 つまり、この手紙の読者は「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれてい」るわけですが、そのこと自体が「信仰の実りとして魂の救いを受けている」からに他ならない、とペトロは書いていました。

 きょうの個所は、そこで言われている「救い」について、説明を展開している個所です。

 ペトロは、この救いについての知らせが、それまでの時代の人たちにとって、どれほど関心の的であったかということを書いています。何よりもそのことについて語ってきた予言者自身が「探究し、注意深く調べた」というのです。

 「探究する」「注意深く調べる」という似たような言葉を二つ並べていますが、そうすることで、預言者たち自身が、どれほど自分たちが預言した救いについて、知りたがっていたのか、ということを表現しています。

 その救いの知らせについて、無関心ではいられないのは、もちろん、それが救いにかかわる知らせであったからということが一番にあるでしょう。しかし、預言者たちが耳にしたのは、「キリストの苦難とそれに続く栄光について」の証言でした。それらはその時代の預言者にとって、予想できないメシアの姿だったに違いありません。

 もちろん、「苦難と栄光」についての預言ですから、苦難だけが預言の内容ではありません。むしろ「それに続く栄光」がなければ、救いの福音にはなりません。けれども、この預言を耳にした人たちにとっては、「苦難」の方により関心が傾き、それがメシアの姿としては受け入れ難いものとして忘れ去られていきました。

 実際、イエス・キリストご自身が、弟子たちにご自分の受難と栄光を予告されたときに、ペトロが最初にとった行動は、イエス・キリストを脇へお連れしていさめることでした。それくらい、その預言は予想外で衝撃的なものでした。

 それにもかかわらず、そのことを予め語るようにと言葉を預かった預言者たちは、それをナンセンスな預言とは受け止めず、「それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」。

 けれども、それを語った預言者たちにとって残念だったことは、それが自分たちの時代には実現しない預言であったということでした。しかし、それでも、預言者たちは、後世のためにその預言を書き残しました。しかも、ペトロの言葉によれば、その預言の実現は天使たちも見たいと願うほどの出来事です。

 今やその預言の言葉はイエス・キリストによって実現し、その救いの福音は使徒たちによって宣べ伝えられています。その実現を知り、その福音を耳にする機会が与えられている今の時代は、パウロの言葉を借りれば「今や、恵み時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)なのです。

 この手紙を書いているペトロ自身、苦難とそれに続く栄光のメシアの姿を初めは受け入れることができませんでした。しかし、キリストの十字架と復活を目の当たりにしたときに、この預言が確かなものであり、神から出たものであることを確信しました。

 そして、今やキリストの福音を宣べ伝える使徒として立てられ、こうして手紙を書いているペトロですが、その働きを通して救いに導かれた人々が救いに留まり続けることを切に祈り願っています。

 今はこのキリストによる救いの福音が提供されている時代です。ほかの人々がどうなるのかということを心配することももちろん大切です。しかし、自分自身がこの救いに与ろうとしないのであれば、どんな探究もむなしいものです。いえ、このことについて語った預言者が見ることができなかった救いの実現を知らされているわたしたちです。天使さえも見たがっていた救いの実現を日に生かされているわたしたちです。そのことを深く覚え、この恵みに応える者となりましょう。