2016年9月22日(木) 名誉ある苦しみ(1ペトロ4:12-19)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが遠藤周作の『沈黙』を初めて読んだのは、高校生の時でした。教会に行き始めて間もないころのことでした。そして、同じクリスチャン仲間の高校生と、この小説について、夜を徹して語り合ったのを思い出します。

 遠藤周作が小説を書いた意図とはかけ離れていましたが、そのとき話題になったのは、もし自分が迫害の時代に生きていたら、踏み絵を踏むか、それとも処刑されるのを選ぶのか、という議論でした。今ならもう少し違った観点から語り合うこともできるでしょうが、高校生だったその頃は、そんな風にしかその小説を読めなかったのだと思います。

 確かに、あの頃、想像で語っていたことは、非現実的なことであったかもしれません。しかし、大きな迫害とまではいかなくても、クリスチャンであるが故の苦しみというのは、どの時代にも避けて通ることができません。

 ペトロはこの苦しみについて、どう語っているのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 4章12節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

 ペトロはここで、再び、読者に対して「愛する人たち」と呼び掛けています。もちろん、ペトロにとってこの手紙の受取人は、主にあって兄弟姉妹であるわけですから、「愛する人たち」と呼び掛けるのは当然のことです。しかし、ここで、あえてそう呼びかけるには、理由がありました。というのは、これから述べようとしている事柄が、クリスチャンにとって厳しさを含んでいるからです。

 ペトロはクリスチャンの苦しみについてここで再び取り上げます。すでに2章20節や3章14節以下で、クリスチャンの苦しみについて簡単に触れました。仕切り直して、ここでクリスチャンの苦しみを扱うにあたって、ペトロは読者たちを「愛する人たち」と呼び掛けます。

 苦しみについて聞かされることは、決して心地よいことではありません。そうであればこそ、これから語ることが、聞く者たちにとって、ただの苦痛とならないように、ペトロは読者たちを「愛する人たち」と呼んで、注意を喚起しています。努めて愛をもって語ろうとするペトロの気持ちの表れです。

 さて、「愛する人たち」という呼びかけに続いて出てくる言葉は、「驚き怪しむな」という言葉です。言葉のもともとの意味は、自分にとって場違いで思いがけないことと思うな、というニュアンスです。

 「身にふりかかる火のような試練」に出くわせば、だれだって、驚くのは当然です。なんでこんな目に遭うのだろう、と誰もが不思議がるはずです。試練とはたいていそういうものです。

 しかし、ペトロはあえて「驚き怪しんではなりません」と語り始めます。すでにペトロは2章21節で、キリストは義のために苦しみを受け、それを耐え忍ばれた模範者として紹介しています。そして、この模範に続くようにと勧めています。

 そうであれば、身に降りかかる試練を予期しないことのように思う必要はありません。キリストの弟子として、その足跡に従うことが期待されているのですから、この試練の苦しみは、起こるべくして起こったということです。

 もちろん、そうであるとはいえ、苦しみが心地よいはずがありません。苦しいからこそ、その試練の理由を問い、その意味を知ろうとするのが信仰者です。

 ペトロは理由や意味などどうでもいいとは言いません。ただ、歯を食いしばって耐え忍びなさいとも言いません。

 「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」とペトロは言います。

 「身に降りかかる火のような試練」をペトロは言い換えて「キリストの苦しみ」と言い直します。ペトロが2章と3章のそれぞれの個所で書いてきたように、それは、キリストご自身が経験された、善を行って義のために受けるキリストの苦しみに通じているのです。

 そのことに気がつき、そのことを知る喜びへと読者の心をペトロは導きます。そればかりか、やがて栄光のうちに再臨されるキリストへと注意を促し、そのときにはさらなる喜びが満ち溢れるものとなることを告げて、思いがけないように感じられる苦しみにも意味があることを告げ知らせます。

 キリストの名のために非難されるという事態は、すでにキリストご自身も予想していました。マタイによる福音書5章11節以下でこう述べておられます。

 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 ここで、大切なことは、この試練は、神から見放されたから起こるのではなく、むしろ逆で、神のものとされているからこそ起こるのです。ですからペトロはこう述べます。

 「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

 試練の中でますます神の霊が信じる者たちのうちにとどまり、神のものであることが明らかになってくるのです。

 この個所を締めくくるに当たってペトロはこう書き記します。

 「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」

 キリストの名のゆえに試練に遭い、苦しみを受けるとき、不安に思うことは避けられないでしょう。あるいは、そうなる前から不安が心を支配してしまうこともあるかもしれません。しかし、大切なことは、この直面する事態を自分の力で乗り切ろうとすることではありません。ペトロは最後に言います。

 「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」