2016年9月29日(木) 長老の務め(1ペトロ5:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 プロテスタントのキリスト教会には、信徒の中から選ばれた「役員」と呼ばれる人たちがいます。その人たちは教派によっても呼び方は違いますが、聖書の時代の呼び方に倣って「長老」と呼ばれることがあります。「長老」という言葉は、文字通りには、「年老いた人」という意味です。しかし、旧約聖書の中でもすでに「老人」という意味ではなく、共同体を見守るある種の役割を担った人を指す言葉になっていました。

 きょうの個所にも「長老」という言葉が出てきます。この手紙の差出人であるペトロも自分を指して「長老」と呼んでいます。ペトロはこの長老たちにどんなことを願っているのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 5章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

 先ほどお読みした個所には「長老」という言葉が出てきました。番組の冒頭でも触れた通り、役職としての「長老」という言葉も、一般的な意味での「老人」という言葉も、もともとは同じ言葉が使われています。この個所で使われているのと同じ言葉は、たとえば、使徒言行録2章17節に引用された預言者ヨエルの言葉にも出てきます。そこでは、「若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。

 この場合、「若者」に対して「老人」と言われているですから、役職としての「長老が夢を見る」という意味ではないことは明らかです。

 では、今日の個所に出てくる言葉はどう訳したら適切なのでしょうか。「長老」という訳語の代わりに「年寄」という言葉に読み替えても、意味は通じそうです。

 「さて、わたしは年寄の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちのお年寄りたちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい」

 こういう訳し方でも全然問題なさそうです。

 もっとも「ゆだねられている」という言葉が二度でてきますから、何らかの責任がこの人たちにはありそうです。ただの老人ではなく、やはり責任ある長老に向かって、この言葉が述べられているということでしょうか。

 もっとも、ここにも翻訳の問題があります。原文では、「ゆだねられている」ではなく、単に「あなたがたのうちにいる」という意味です。「ゆだねられている」という翻訳は、ここを役職としての「長老」と理解した場合に出てくる意訳です。

 しかし、結論から言えば、ここは一般的な意味での「お年寄り」に対する勧めの言葉ではなく、やはり役職としての「長老」に対する言葉と理解した方がよさそうです。

 というのは、「神の羊の群れを牧しなさい」ということがすべてのお年寄りたちに求められているのだとすれば、それは荷が重すぎるように思われるからです。もしそれが年老いた人たちに当然求められることであったとしたら、聖書は、わざわざ教会に「長老」を選んで立てることなど勧めはしなかったことでしょう。

 ここでも、共同体としての教会を見守る務めを課せられた長老たちに対する言葉として理解すべきでしょう。そうであるとするなら、長老ではない人にとって、きょうの個所を読む意味はなくなるのでしょうか。そうではありません。

 まず第一に、ここでも言われているとおり、彼らは「群れの模範」です。長老たちに勧められていることは、すべての信徒たちの模範となるような事柄ですから、長老ではない人にとって無関係なことではありません。

 第二に、長老を選ぶのは教会員たちです。もちろん、長老をお立てになるのは神ご自身ですが、神に選ばれたものであるかどうかは、会員の選挙によって明らかにされます。長老にふさわしい器であるかどうかを知るためにも、きょうの個所を学ぶことは大切です。長老たちに不満を抱く前に、長老を選ぶ自分たちの目を養うために、すべての信徒にとって、今日の箇所は、学ぶべき個所です。

 さて、長老たちに勧めて、ペトロが開口一番に述べていることは、「神の羊の群れを牧しなさい」ということです。新約聖書の中では、長老の務めを「監督」と呼んでいる箇所があります。

 たとえば使徒言行録20章17節でエフェソから呼び寄せられた長老たちのことを、同じ章の28節では「この群れの監督者」と呼んでいます。

 ギリシア語の「監督」の文字通りの意味は「上から見渡す」ということです。「上から見渡す」というと、なんだか上から目線で偉そうに聞こえますが、聖書の中の長老の役割は、人の上に立つということではありません。群れをもれなく見渡すためには、便宜上一段高いところに立ちますが、それはあくまでもイメージの問題です。「上から見渡す」というよりも「見守る」という言葉の方が、よりイメージに近いかもしれません。ただ、見守るだけで何もしないという消極的なイメージでもありません。

 この手紙の中では「長老」という言葉はここで初めて登場しますが、その務めを「監督」という言葉をつかわないで「群れを牧する」「羊を飼う」という言葉で表現しています。ペトロがあえてこの言葉を選んだのには理由があります。というのは、ペトロ自身が復活のキリストから、三度そう言われたからです(ヨハネ21:15以下)。しかも、それは三度、キリストを否定してしまったあとのペトロに対してです。大牧者であるキリストご自身がそのようにペトロを取り扱ってくださったのですから、ペトロにとって、キリストの自分に対するその扱いは、牧者、長老としての模範であったはずです。

 ここで、ペトロは長老たちにどのような態度で群れを牧するか、こう勧めています。

 「強制されてではなく、…自ら進んで」
 「卑しい利得のためにではなく献身的に」
 「権威を振り回すのではなく、群れの模範になるように」

 とくに最後の勧めの言葉は、イエス・キリストご自身が模範を示してくださいました。イエス・キリストは弟子たちにこうおっしゃいました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

 そして、良い羊飼いとして、そのとおり群れのために命を捧げてくださいました。このキリストの命によって生かされている一人として、ゆだねられた群れのために仕え、見守ることが長老たちに求められていることです。そして、それは強制されてではなく、キリストの愛に応えるときに、もっともその務めをよく果たすことができるのです。