2016年10月20日(木) 信仰に踏みとどまる(1ペトロ5:8-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分が信仰の道を生涯歩みとおすことができるのか、言い換えれば、自分の救いの確信を持ち続けることができるのか、ということは、キリストの救いを信じる者にとって、とても大きな問題です。誰しも、自分がどこかで救いから再び落ちてしまうかもしれない、と考え始めたならば、落ち着いた信仰生活を送ることなどできません。いつも緊張し、いつも自分の救いの確かさを吟味しなければ安心して過ごすことはできなります。

 しかし、反対に、自分は二度と救いから漏れることはないと確信し、まったく無防備で怠惰な信仰生活を送り始めたとすれば、それもまた、神のみこころとは違った生き方を送ることになります。

 キリストの救いにあずかりながら、この地上を歩むわたしたちの生き方は、どうあることがりそうなのでしょうか。きょうもペトロの手紙に耳を傾けていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 5章8節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

 前回の学びでは、神のみ前での、人間の「へりくだり」について学びました。そのへりくだりは、創造者である神のみ前に、自分自身を明け渡すということにつながっていました。自分で何もかも解決しなければならない、と思い込むのではなく、わたしのことを心にとめて、心配してくださる神のみ手に、自分を委ねていくことこそ、人間のとるべき謙遜の姿でした。

 その続きがきょうの個所です。

 「身を慎んで目を覚ましていなさい。」

 ペトロはそう読者に勧めます。身を慎んでいるべきことについては、すでに繰り返しこの手紙の中で言われてきました。

 「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(1ペトロ1:13)

 「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(1ペトロ4:7)

 ここでも、身を慎んでいるべきことがまず勧められます。この場合の「身を慎む」という言葉は、落ち着いて、控えめで、冷静な様子を表しています。前回の続きで読めば、当然のことでしょう。神ご自身がわたしたちのことを心にかけていてくださっているのですから、これ以上、思い煩ったり、心を騒がす必要はありません。

 しかし、ペトロは同時に「目を覚ましているように」と勧めます。落ち着き払って、もう目を閉じてしまってもよい、とは勧めません。

 「目を覚ます」という言葉がこの手紙の中に出てくるのは、後にも先にもこの個所だけです。しかし、この言葉は、主イエス・キリストが繰り返し弟子たちに言い聞かせた言葉でした。特にゲツセマネの園で祈るキリストは、眠りこけてしまった弟子たちを前に、ペトロに対してこうおっしゃいました。

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マルコ14:38)

 その言葉を直接キリストから聞いたペトロは、この手紙の中で読者たちに対して同じように「目を覚ましていなさい」と勧めます。

 というのは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」いるからです。

 ぺトロはここで、悪魔を指して「あなたがたの敵」と呼び、空腹で獲物を狙う獅子に例えています。そのように悪魔がだれかを食い尽くそうと探し回っているのですから、眠っているわけにはいきません。

 確かに、ペトロは、直前のところで、思い煩いは何もかも神にお任せするようにと勧めました。けれども平安のうちに心を穏やかにしていることと、悪魔に対して目を覚ましていることとは、決して矛盾することではありません。

 しかも、ペトロは続けてこう勧めます。

 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」

 そうでなければ、再び悪魔の誘惑にさらされて、神から永遠に離れてしまうからでしょうか。ペトロはそういう視点から目を覚ましているようにと勧めているわけではありません。

 十字架と復活で死の力を打ち破った勝利者キリストの前に、悪魔の力は最後のあがきでしかありません。しかし、そのあがきのために苦しみに遭う信仰の共同体を意識して、共に目を覚まして、信仰に踏みとどまるようにとペトロは主にある兄弟姉妹たちを励ましているのです。

 この戦いはすでに終わりが見えています。終わりが見えているというばかりか、どちらが勝利するかもはっきりとわかっている戦いです。ペトロはこの戦いに臨む信仰者たちに対してこう述べます。

 「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」

 キリストを通して永遠の栄光へと招かれているわたしたちです。招いてくださったのは神ご自身です。この神が共にいてくださり、わたしたちを心にかけていてくださるからこそ、目を覚ましていることに意味があり、信仰の兄弟姉妹とともに悪魔の策略に確信をもって抵抗することができるのです。永遠に神とともに過ごすことと比べれば、この地上での戦いの苦しみは、「しばらくの間」のことでしかありません。

 救いが確かである根拠は、わたしたちのうちにあるのではありません。わたしたちを永遠の栄光へと招いてくださった神御自身こそが、わたしたちの救いの希望の源です。

 「力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」