2016年11月10日(木) 召しと選びを一層確かに(2ペトロ1:5-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 信仰生活を維持していく上で大切なことは、疑う心を克服することです。疑いにも様々な疑いがありますが、クリスチャンにとって一番の大きな疑いは、自分の救いを疑い始めることです。神が救い主イエス・キリストを送ってくださったことも、その救い主が罪人に代わって十字架で罪の贖いを成し遂げられたことも確かであると信じながらも、その救いに自分はあずかることができないのではないか、と疑い始めることです。

 そして、そのような疑いを持ち始めるのには、必ずきっかけがあります。それは、キリストを信じる者としての未熟さに気が付いたときに、しばしば、陥る落とし穴です。この地上では、不完全なものであることからまぬかれることができないということをしっかりと受け止めたうえで、しかし、不完全さに決して甘えない生き方が、信仰者には求められています。きょうもペトロの手紙から、信仰者に求められている生き方を学んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 1章5節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

 きょう取り上げた個所は、手紙の本文の冒頭部分にあたるところです。この手紙が誰から誰に宛てて書かかれたものであるのかを記し、挨拶の言葉を述べたあとに、ペトロは手紙の本文で、まず、神がわたしたちにどんな恵みの業をなしてくださったのか、そのことから語り始めました。きょうの個所はそこに続く言葉です。

 ここでは、恵みを受けた信仰者が、どのようにこの神の恵みの御業に応答して生きるべきなのかを記しています。

 まずここには、信仰から始まって愛に至るまで、八つの事柄が次々に加えられています。信仰からスタートしているのは、事柄の順序から当然と言えます。というのは、救いは徳や知識から始まるのではなく、信じることから始まるからです。しかし、信じて義とされて終わり、というのがクリスチャンのこの地上での歩みのすべてではありません。

 この信仰の歩みは、愛を加えることで、高みに達します。最後に愛について言及しているこの順序も、決して思いつきではないでしょう。パウロもコロサイの手紙の中で、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3:14)と述べています。また、イエス・キリストご自身、弟子たちに最後の晩餐の席上で、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃって、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお命じになりました(ヨハネ13:34)。

 愛はそういう意味で、身に着けるべきもっとも大切なものということができます。

 「信仰」から始まって「愛」に至るまでの間に、ペトロは六つの項目を加えています。「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」の六つです。これら一つ一つの言葉の意味についての解説は、時間の関係で省略しますが、なぜ、こららの事柄が必要であるのか、8節でこう述べています。

 「これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 つまり、主イエス・キリストを知る知識という点で、怠惰で実りのない者にはならないためです。ここでいう「キリストを知る」というのは、キリストについての知的な知識を得るという意味ではありません。自制、忍耐、愛など、ここに挙げられていることがらを通して知りえるキリストそのお方です。

 イエス・キリストがいつどこで誰の子として生まれ、どんなことをしてくださったのか、ただそういう知り方であれば、福音書を一通り読めば理解できることでしょう。しかし、そういう知識に留まっていることを指して、「信仰を持っている」というのだとしたら、まさにペトロが語っているように、それは「怠惰で実を結ばない者」の信仰です。

 キリストを知るということは、キリストを信じつつ、実際にこの世で人と関わり、そうする中で、「徳」や「知識」や「自制」や「忍耐」や「信心」や「兄弟愛」について真剣に吟味し、それらを総動員して愛に生きようとすることで、初めて到達できることなのです。

 ペトロはさらに筆を進めて、これらのことがらを備えないことがもたらす弊害についても述べています。

「これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。」

 パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、こう祈りました。

 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」(エフェソ1:17-18)。

 この祈りのとおり、信仰者は霊的な盲目から心の目を開いていただき、神の御業を心の目で見ることができるようにされています。しかし、もし、ペトロが勧める生き方を怠るとすれば、再び、霊的な視力を失って、神の恵みの業が見えなくなってしまうということです。

 ペトロの願いは、もちろん、この手紙の受取人たちが、神の恵みの業を見失ったりしないことです。ペトロは力強く勧めています。

 「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。」

 自分が神から召されたこと、選ばれたものであることを知っている、信じている、ということだけに留まっているとするならば、それはとても危ういことです。それはペトロ自身が経験した危うさでもあります。愛を冠としていただき、信仰の歩みをつづけるときにこそ、キリストを深く知り、自分が召されたこと、選ばれていることを確信することができるのです。