2016年12月8日(木) 神の裁きの確かさ(2ペトロ2:4-10a)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「過去の教訓に学ぶ」ということは、どんなことについてもいえることです。特に信仰にかかわる事柄については、旧約聖書の歴史からたくさんのことを学ぶことができます。

 当然のことですが、過去の教訓に学ぶためには、少なくとも、過去についての正確な記録がなければなりません。記録がなければ、だれも過去を知ることはできません。

 しかし、記録があるというだけでは、そこから学ぶことはできません。記録があることが知られていなければ、だれもその記録を調べることはできません。たとえば、最近では地震や津波に関する古文書の記録がにわかに脚光を浴びています。記録自体があったにもかかわらず、残念ながら今までほとんど知られていなかったために、避けられるはずの危険を回避することができなかったからです。

 しかし、過去の記録があって、しかもよく知られているというだけでも、まだ足りません。もっとも大切なのは、そこから真剣に学び取ろうとする姿勢です。旧約聖書は、イスラエルという一民族を通して、神が人類の救いにかかわってくださった記録です。もちろん、過去の出来事を記した歴史書に留まるわけではありません。人類の救いの完成を展望する書物でもあります。いずれにしても、神が導いてくださった救いの歴史から教訓を学び取ろうという姿勢がなければ、旧約聖書を読む意味は半減してしまいます。

 今日の聖書の個所は、過去の歴史に学んで、今の時代への教訓とする姿勢に貫かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 2章4節〜10節前半までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち8人を保護なさったのです。また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。

 前回学んだ個所には、偽教師の出現に対する警告が記されていました。そして、その段落の最後には、このような者たちに対する裁きが、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはないと断言されていました。

 きょうの個所は、それを受けての段落です。つまり、昔から怠りなくなされていた裁きについて、ペトロは過去の実例を引いてきて、自分が書いていることの正しさが、過去の歴史と一致していることを示しています。

 ここには三つの例が引用されていますが、ノアの洪水のことと、ソドムとゴモラに起こった出来事は、それぞれ創世記の中に記されている出来事なので、聖書を読んですぐに確かめることができます。しかし、最初に挙げられている「罪を犯した天使たち」に対する裁きのことは、直接旧約聖書の中に記録があるわけではありません。

 同じ内容と思われることがらについては、ユダの手紙の中にも取り上げられています。そこにはこう記されています。

 「(主は)自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」(ユダ6)

 ペトロの手紙の言葉とユダの手紙の言葉には、旧約聖書には直接記されてはいませんが、共通した背景があるように思われます。そして、その共通した背景とは、しばしば、旧約聖書偽典に分類される『エノク書』の記述によるものであることが指摘されています。このエノク書の理解によれば、その堕落した天使たちは、創世記6章に出てくる、人の娘たちを娶って、ネフィリムを産ませた神の子らと関連付けられています。

 ペトロの手紙とユダの手紙と、それからこの『エノク書』が資料的にどういう関係にあるのかは、これ以上踏み込まないことにします。ペトロがここでもっとも言いたいことは、罪を犯した天使たちに対する裁きが確実に用意されていたという事実です。そして、少なくともペトロの手紙の最初の読者たちは、このことに関してペトロと共通の知識を持っていたということです。

 残念ながら、第一の例について、これ以上のことをわたしたちには確かめることができませんが、続く第二、第三の例は、わたしたちが十分に把握している出来事です。つまり、ノアの時代に洪水が起こったのも、またソドムとゴモラの町が硫黄の火によって滅ぼしつくされたことも、どちらも聖書に親しむ者にとってなじみのある話です。

 このような滅びが用意されたのは、その者たちが、神の教えに頑なに背いて、正しい道を踏み外してしまったからにほかなりません。もちろん、誰一人として罪のない人はいないのですから、すべての人は滅びに定められています。そして、そうであるからこそ、すべての人には救いが必要です。そのために神は主イエス・キリストを遣わし、キリストを通してこの滅びからわたしたちを救い出してくださいました。

 しかし、そうであるにも拘わらず、偽教師たちの教えは、その救い主であるキリストを否定するのですから、もはやそこには救いがなく滅びしかないのは当然です。

 ペトロは偽教師たちの行く末を鋭く指摘しています。しかし、同時に、そのような神に逆らうような者たちの中にあって、忍耐強く神の救いに留まりつづけ、心を痛める者たちに対して、神がなさってくださった恵みの業をも描いています。神はノアとその家族に対しては保護の手を差し伸べ、ロトに対しては救出の道を備えてくださいました。

 神は救いの歴史を通して、私たちを正しい道へと導き、またそこにとどまることの幸を教え、励ましてくださいます。偽りの教えに対抗できる最高の武器は、結局は、神の救いの歴史と約束を記した聖書そのものに学ぶことです。