2016年12月29日(木) 主の来臨をあざける者たち(2ペトロ3:1-7)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が子供のころから、関東には必ず大きな地震がやって来るということがずっと言われ続けてきました。70年周期説などというものも耳にしたことがあります。しかし、実際には、関東で大きな地震が起こる前に、阪神淡路で大地震が起こり、その後も新潟や、東北、熊本などで、大きな地震が起こっています。

 では、関東にはもう大きな地震は来ないのか、というと、どの地震学者も、一層その危険が高まっていることを警告しています。それは、今日明日に必ず来るということではないにしても、しかし、それが今日明日に起こったとしても、まったく予想外のことではないというほど、緊迫した警告です。

 これは、終末の到来を予告した聖書の言葉にも通じるものがあるように思います。聖書が語る終末の到来は、確実なものとして描かれます。しかも、それは決して遠い将来のこととして描かれるのではなく、切迫した緊張感の中で、いつ起こっても不思議ではない出来事として終末の到来が予告されています。

 しかし、実際にはそれからおよそ2千年たった今でもまだ訪れません。だからといって、この先2千年間もまったく大丈夫という保証にはなりません。終末の時の到来は、依然として、いつ起こっても不思議ではないくらい切迫したものであり続けています。

 このことを真摯に受け止めようとしないときに、教会の中に間違った教えが入り込み、その教えから腐敗した生活が教会の中にはいりこんでしまう危険が増大します。

 ペトロが直面している問題は、まさにそのようなものでした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙二 3章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。

 前回まで、ずっと偽教師の問題が取り上げられてきました。3章に入って再び読者に直接語ります。

 「愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いています」

 ここでペトロは、この手紙が二度目の手紙であることを強調しています。もちろん、手紙の受取人たちにとっては、この手紙が二度目の手紙であることは、言われるまでもなく知っていたはずです。問題は、なぜ一通の手紙では物足りず、再度、手紙を書こうという思いになったのか、ということです。ペトロはこう語ります。

 「それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。」

 2章で偽教師たちのことを散々取り扱ってきましたが、その執筆の意図は、偽教師を直接相手として論駁することではありません。むしろ、この偽教師たちの危険にさらされている読者たちを、正しい信仰生活にとどまるようにと励まし、奮い立たせるためです。それは、何よりも主にある兄弟姉妹として、彼らが「愛する人たち」であったからです。

 留まるべき信仰の土台は、預言者たちがかつて語った言葉と、使徒たちが伝えた救い主イエス・キリストの掟です。ここに踏みとどまる限り、正しい信仰の道を踏み外すことがありません。具体的には「聖書の言葉」と置き換えてもよいかもしれません。ただ、その場合、教えとしての聖書の御言葉、というばかりではなく、「主であり救い主である方の掟」とあるように、具体的な生き方を規定するものとして、そこにとどまることが求められています。それは偽教師たちが欲望の赴くままに生活しているのとは対照的な生き方です。

 ここに、ペトロは間違った道へと堕ちていった者たちの主張を紹介します。

 終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」

 主イエス・キリストの再臨と世の終わりに対する彼らの誤解が、まさに、彼らの生活の規範を揺るがしていることを明かしています。

 番組の冒頭でも、地震のことを例にして紹介しましたが、なかなかその時が到来しないということは、その時がもう来ないということでは決してありません。主が再臨されるという約束が成就する時は、いつでも切迫していることに変わりはありません。

 間違った教えを主張して、怠惰な生活にふける人たちがよりどころとしているのは、彼らの経験でしかありません。しかも、その経験は何の根拠もないことです。

 彼らは「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらない」と語っていますが、実際、彼らが変わっていないと主張しているのは、ほんの彼らが生きて経験した範囲のことでしかありません。悠久の昔のことなど知ってもいないことです。自分の経験したことの中で起こらなかったことは、これからも起こらないと根拠もなく言い放っているにすぎません。

 それに対して、ペトロが指さす先には、聖書が語るノアの洪水の出来事があり、そこから何を学び取るべきかの警告があります。

 そもそも、神の御言葉よりも自分自身の経験を第一とするところに、危うさがあるのです。それに対して、ペトロは、「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもら」いたいと、愛する読者たちに心から願っています。