2017年5月11日(木) 恵みに応えて生きる(2コリント6:1-10)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 救いは恵みである、と聖書が語っています。その場合の「恵み」には二重の意味があります。恵みとは、報酬や対価では決してない、ということです。何かに対する報酬として、あるいは、何かに対する対価として、救いが与えられるのではありません。

 これは、ほとんどの人が抱いている救いのイメージとは異なっています。聖書の救いは、決して何か良いことをしたことに対する報いとして与えられるものではありません。むしろ、人は自分を救うほどのどんな善い行いもできないということが前提です。だから、恵みとしてしか与えようがありません。

 そこから導き出される恵みのもう一つの側面は、無償であるという点です。救いは恵みであると聖書がいうとき、それは、救いが全く無償で提供されるということを含んでいます。もちろん、聖書の救いが価値がないので、ただでばらまかれるということではありません。救いに関わる全ての必要をイエス・キリストが完全に満たしてくださったということが前提にあります。すでに必要なすべてが支払われているからこそ無償で提供できるのです。

 ただでは申し訳ないので、一部でもお支払いしたい、と思うのが、人間ですが、救いに関して言えば、一部さえも支払うということができないのが現実です。それに、すでに完全に支払われているのですから、何かを差し出したとしても、意味のないことです。

 できることをあえて言うとすれば、恵みによって与えられた救いを、恵みとして受けること、このこと以外にわたしたちにできることはありません。そして、その上で何かしたいというのであれば、ただ、この恵みにふさわしく生きることだけが、求められていることです。

 パウロは、この恵みによる救いを伝える使徒として、何よりも、この救いを恵みのままに受け入れてほしいと願っています。そして、この恵みによる救いを伝える使徒として、恵みの福音にふさわしくふるまっています。

 今日取り上げようとしている箇所には、パウロのそうした願いと行動が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 6章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 前回取り上げた個所で、パウロは自分のことを、神によって立てられた「和解のために奉仕する使者」であると述べました。使徒とはそのような任務を帯びて遣わされてくる者です。パウロはその務めを忠実に果たしてきましたし、この手紙を書いている時点でも、その使命感には揺らぎがありません。

 コリントの教会で起こっている問題のことで、パウロの心には痛みがありました。しかし、パウロは自分の心の痛みを解決することが目的で。この手紙を書いているのではありません。パウロの願いは、何よりも、コリントの教会の人々が、恵みによって受けた救いの大きさに気が付き、それを真摯に受け止め、この恵みにふさわしく生きることです。

 パウロはそのことを訴えるために、今こそ恵みのとき、今こそ救いの日であることを、預言者イザヤの言葉を引用しながら、今の時の重要性を強調しています。

 イエス・キリストによって救いが完成した今、いつでも救いにあずかれる恵みが与えられている、というのは確かな真理です。しかし、いつでも救いにあずかることができる恵みに、終わりがないということではありません。一つは、恵みの受け手である人の人生には限りがあります。しかも、その終わりがいつ来るか、誰にもわかりません。そういう意味で、「今が恵みのとき」といっても、明日もそうである保証はありません。

 さらには、たとえ、まだまだ元気で生きることができるという自信があったとしても、世界にも終わりがあることを知っておくべきです。パウロが「今や、恵みのとき、今こそ救いの日」と言っているのは、世の終わりを意識してのことでしょう。恵みのときにも終わりが来るのですから、パウロはいっそう真摯な思いで、この恵みを無駄にすることがないようにと、コリントの教会の信徒たちに勧めています。

 パウロは和解の福音を委ねられた使者として、このようにコリントの教会の信徒たちが恵みにふさわしく生きることを願っていますが、パウロ自身も神の恵みに対して、真摯に生きる人でした。この務めを神からいただいたパウロが、どのように注意深く恵みに生きてきたのか、ということが述べられています。

 何よりも、この務めが非難されないようにと、パウロは必要以上に気を配りました。とりわけパウロが心がけたのは、苦難と窮乏の中で、神の恵みに生きる者にふさわしく行動をとることでした。それは、決して、パウロの人間的な努力というものではありませんでした。パウロ自身が語っているように、それは、聖霊と真理の言葉と神の力によってなしたことでした。言い換えれば、神への信頼と誠実さが根底にありました。

 そうした行動に生きるパウロに対する人々の評価はいつも一つとは限りません。栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときもありました。しかし、パウロはここで、人に気に入られようとして、福音の内容を変えたり、神の言葉に混ぜ物をすることをしませんでした。

 パウロは自分のことを「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」と述べていますが、人の顔色をうかがわないということが、一部の人には、人を欺いているとか、不誠実な態度と受け取られたのでしょう。しかし、パウロは神に対して誠実さを貫き、神への誠実さから、人に接する態度を貫き通した人でした。

 和解の福音を委ねられた使徒として、恵みにふさわしく生きることとは、つまるところ、この務めを委ねてくださった神への信頼と誠実さということに尽きます。

 それは、恵みの福音を信じるわたしたちにとっても大切なことです。