2017年8月10日(木) 教会員に対する熱い思い(2コリント11:1-6)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 皮肉なものの言い方というのは、言われていい気持ちがするものではありません。それは、たいていの場合、相手を軽蔑し、相手を馬鹿にする思いから出てくるからです。皮肉なものの言い方に愛を感じるなどということはまずありません。

 もっとも、どんな言葉も表現もそうだと思いますが、それが使われる人同士の間柄によるところは大いにあると思います。普段からギスギスした間柄の人から、皮肉たっぷりにものを言われれば、反発こそすれ、相手の言うことを素直に聞こうなどとは思いません。しかし、普段から信頼のおける間柄であれば、皮肉な言葉の真意がどこにあるのかと、相手の思いを知ろうとするものです。

 きょうの個所で、パウロはある意味、とても皮肉な言い方をしてます。もしこれが、初対面の人に対する言葉であったとしたら、それを聞いて躓かない人はいないでしょう。しかし、こんな表現を使えるということ自体が、少なくともパウロにとっては、コリントの教会の人たちは、パウロが語っていることの真意を受けとめて、応えてくれる人たちだ、という信頼が背景にあることを物語っています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 11章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。

 パウロは、自分たちに敵対して、コリント教会の信徒たちを惑わしている偽の使徒たちを念頭に、この手紙を書いています。パウロは前回取り上げた個所で、そうした敵対者たちを批判して、彼らこそ自己推薦に頼り、仲間内で褒め合っているにすぎない、と痛烈に批判しました。そして、ほんとうに神を信じる者であるならば、自分を誇ったりしないで、誇るなら主を誇るべきだと主張しました。

 きょうの個所はその言葉と矛盾しているように聞こえますが、パウロが自負していることを記しています。自分がコリントの教会の信徒に対してどれほど熱い思いを抱いているか、大使徒と比べて少しも引けを取ってはいないこと、たとえ、話ぶりが素人でも知識の点では素人などではないこと、その思いを熱く語っています。

 これらの言葉を聞いて、「誇るなら主を誇れ」と語ったパウロこそ、自慢をしているのではないか、という声が聞こえてきそうです。その声を想定して、パウロは最初に「少しばかりの愚かさを我慢してくれ」とコリントの教会の人たちに語りかけています。

 パウロからしてみれば、敵対者である偽使徒たちの愚かな自己推薦を我慢して聞いているコリント教会であるならば、自分の言うことにも少しは我慢を働かせて耳を貸してほしいということでしょう。

 ただ、パウロはここで本気で愚かな自慢話をしているわけではありません。そうではなく、パウロがなぜこうまでコリントの教会の人たちと関りを持ち続けようとしているのか、その真意を理解してもらおうと、この手紙をしたためています。

 パウロが心配ていることは、敵対者が自分について何をどう言いふらしているか、ということではありません。パウロが本当に心配していることは、むしろ、コリントの教会の信徒たちのことです。

 コリントの教会の人々に対するパウロの熱い思いは、神がコリントの教会を愛しておられるのと同様、少しも引けを取らないとさえ言い切ります。そして、その思いを、婚約させた娘を持つ父親の心情になぞらえて語ります。

 婚約を許したからには、その約束に従って二人が無事に結婚することが、何よりも父の願いです。この結婚が、別の男にそそのかされて破談になることを願う父親などいるはずもありません。それは娘のことをほんとうに大切に思う父親の気持ちです。

 それを置き換えて言えば、パウロはいわばコリント教会をキリストへと嫁がせる父親なのです。パウロの願いは、この教会に集う一人一人が、キリストの再臨の日を迎えるにあたって「キリストに対する真心と純潔」とを持ち続けることです(2コリント11:3)。それを妨げるような事態が起こるとき、心配するのは当然のことです。

 これは、決してパウロが心配症すぎで、ありもしないことを心配して憂いているのではありません。パウロの目から見て、敵対者が教えていることは、「異なったイエス」であり「自分たちが受けたことのない違った霊」であり「受け入れたことのない違った福音」なのです。

 そのようなものを聞かされて、「よく我慢している」とパウロは皮肉とも呆れともとれる口調で彼らをたしなめます。もちろん、パウロの真の願いは明らかです。それは、コリント教会に集う人たちの信仰が健全なものであり続けることを願うパウロの心からの思いです。

 パウロはここで、「異なったイエス」とは何か、「自分たちが受けたことのない違った霊」がどんな教えか、「受け入れたことのない違った福音」のどこがどう違うのか、いちいち説明はしていません。おそらく、今それを語ったとしても、心開いて聞いてはくれないと感じているからでしょう。

 二つのことだけをパウロは述べています。その一つは、エバが欺かれたのは、蛇の悪だくみによったという事実です。あのとき蛇がエバに語って聞かせたことは、いかにももっともらしいことでした。しかし、それは神の純粋な教えとは異なっていたのです。この出来事を軽く見ることはできません。

 もう一つの点は、パウロは「話し振りは素人でも、知識はそうではない」ということです。実際のところ、パウロが本当に素人のような話しぶりだったのかはわかりません。ただ、コリントの教会のある人たちが、そう思っていたのでしょう。そして、その思い込みは、「パウロは知識も素人並みだ」というもう一つの思い込みを産んでいたのでしょう。

 そうではないことを、パウロは「わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました」と反論しています。本当に聞く耳をもって聞いてきたならば、パウロが知識のある人かそうでないかは、見分けることができたはずです。偏見や思い込みではなく、使徒が語る言葉によってこそ、福音の神髄に触れることができるのです。


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