2017年8月17日(木) コリントで無報酬を貫く意味(2コリント11:7-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 仕事をしてその報酬を得る、ということは、働く者にとって当然のことです。その考え方は、聖書の中にも当然のこととして描かれています。主イエス・キリストは弟子たちを派遣するときに、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とおっしゃって、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない」と命じられました(マタイ10:9-10)。

 しかし、その権利をあえて放棄して、無償で働くということも、現実にはあります。例えば、専門家がその専門性を生かして、無料の相談会を開くということがあります。あるいは様々なボランティア活動もそれに近いかもしれません。

 使徒パウロも、原則としては「働く者が報酬をうけるのは当然である」と主張しながらも(1テモテ5:18、1コリント9:9:7-11)、コリントの地では他の仕事をしながら、福音宣教の働きから報酬を得ませんでした(使徒18:3参照)。ところが、そのことがパウロに対する批判を生み出していたようです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙二 11章7節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

 今日取り上げた個所は、今まで学んできた偽使徒たちによるパウロへの批判に対する反論の続きです。

 ここでは、パウロが報酬を得ないことに対して、偽使徒たちが巧妙な批判を繰り広げていたようです。その口車にまんまと乗せられて、コリントの教会のある人たちはすっかりパウロに対する不信の思いを募らせていたのでしょう。

 考えても見れば、今の時代なら、無報酬で一生懸命に働いてくれる人に対して、感謝こそすれ、批判などもってのほかのことです。しかし、どの時代、どの地域でも無報酬の働きが評価されるかといえば、必ずしもそうではありません。ギリシア世界では哲学者が報酬を得て教えることは当然でした。報酬を得て教えるということは、その教えが権威あるものであることを証しするものでした。敵対者たちは、パウロが無報酬で教えを説くのは、その教えが素人の教えだからだ、とでも吹聴していたのでしょう。あるいは、コリントではテント造りをしながら伝道をしていたパウロのことを、卑しい職人だと見下す思いがあったのかもしれません。

 このような敵対者による批判の声を、パウロは見逃すわけにはいきません。もちろん、それはただ自己弁明のために反論をするというのではありません。パウロが直面しているのは、コリントの教会の一致と健全な成長の問題です。この敵対者たちによる言いたい放題の攻撃を放置すれば、コリントの教会が分裂し、間違った福音へと傾いてしまうことを懸念したからです。

 パウロはこのような批判に対して、こう切り返します。

 「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」

 パウロが無報酬で福音を宣べ伝えているのは、決して、パウロが素人だったからではありません。それはあえて身を低くして行ったことです。そのことは、パウロ自身が他の書簡でも述べているとおり、働く者が報酬を得るのは当然である、という考えをパウロ自身が持っていたことからもわかる通りです。報酬をあえて受けなかったのには、理由があったからです。その理由の一つは、コリントの人たちを「高めるため」であったと記しています。

 報酬を受けないことが、具体的にどうコリントの教会を高めることにつながるのか、パウロはあえて記してはいませんが、コリントの教会に負担をかけることで、福音の宣教に妨げになる、という牧会的な判断をパウロがくだしたからでしょう。

 もちろん、パウロとて人間ですから、生活に必要な費用が全くかからないというわけではありません。どこかから、生活を支える費用を得ないわけにはいきません。使徒言行録18章に記されたコリントでの伝道の記事には、パウロがテント造りをしたことが記されています。パウロの生活費の一端はそうして得られたものがあったのでしょう。しかし、それ以上に大きな支えは、コリント以外の諸教会からパウロのもとに届けられました。

 パウロはそのことを「他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」と記しています。「かすめ取るようにしてまでも」という表現は、おそらくは、敵対者たちの言いふらしていた悪口であったのでしょう。つまり、パウロはコリントからは報酬を得ない代わりに、ほかの教会からかすめ取っているのだと。

 しかし、実際にはそうではありませんでした。フィリピの信徒への手紙の中でもパウロが書いているとおり、パウロは教会の自発的な援助に支えられて伝道活動を続けることができたのです(フィリピ4:15参照)。

 しかし、このようなパウロの配慮にもかかわらず、そのようなパウロの行動は、結局のところコリントの教会を信頼せず、愛していないからだ、と敵対者たちはさらなる批判の声を上げていたようです。しかし、そのような批判には、パウロは神のみがそれをご存知である、と一蹴して、これ以上のことを神にお任せしています。

 パウロの行動はただ一貫してコリント教会への配慮と、神への信頼に貫かれていました。議論のための議論に巻き込まれることはなく、何がこの教会にとってもっとも大切なのかを、いつも考えていたパウロでした。