2017年11月9日(木) 試練(マルコ1:12-13)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうこれから取り上げようとする個所は、「荒れ野の誘惑」と呼びならわされてきた有名な場面です。キリストの生涯を学ぶときに、おそらく外すことのできない場面の一つです。もっとも、外すことはできない、とはいいましたが、ヨハネによる福音書には、そのことが一言も触れられていません。今学んでいるマルコによる福音書でさえ、その取り扱いはたったの2節にすぎません。

 マタイによる福音書とルカによる福音書が、この出来事を非常に詳しく描いているために、キリストの生涯、とりわけキリストの「公生涯」の始まりを描くときに、今となっては省略することができないくらい有名な話になっています。

 バチカンのシスティーナ礼拝堂にはキリストの生涯の名場面が、壁画として描かれていますが、その中にボッティチェリが描いた「荒れ野の誘惑」の場面があります。キリストの生涯の数ある場面の中で、やはり外すことのできない場面ということでしょう。

 おそらく「荒れ野の誘惑」のこの場面を知らないという人も、そのときサタンの誘惑をはねのけたキリストの言葉を耳にしたことがある、という人は多いと思います。その言葉とは、「人はパンだけで生きるものではない」という、あの有名な言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章12節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 マルコによる福音書は、番組の冒頭でも言いましたが、イエス・キリストがサタンから荒れ野で誘惑を受けられる場面を、ただそういうことがあった、という1行の報告で簡単に終わらせています。節の数でいえばたったの2節にすぎません。ちなみに、同じ場面を描いているマタイによる福音書は、そのために11節を費やしています。同じようにルカによる福音書では13節をそのために使っています。

 それらの福音書と比べれば、マルコによる福音書は、キリストがどんな誘惑を受け、どう退けたのか、詳しいことは何も語っていません。その誘惑に打ち勝ったのかさえ、語らないほどです。読者であれば、誰もが知りたいと思うことを、マルコ福音書はあえて省略しています。そうすることで、もっと読者に知ってほしいと思っている事柄が浮かび上がってきます。

 この荒野での誘惑の場面は、イエス・キリストが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられた話に直結しています。

 ちょうど先週はその場面を学びましたが、そこでは、聖霊が鳩のようにイエス・キリストの上に降ってきました。その同じ聖霊がイエスを荒れ野に送り出したという書き出しは、この出来事を理解するうえで大切なポイントです。

 すべてのことが、神の御手の内にある、という大きな前提が、「荒れ野の誘惑」の物語にはあります。イエス・キリストは荒れ野にうっかり迷い込んだわけではありません。洗礼をお受けになった時に、ご自分の上に降ってきた同じ神の霊が、イエス・キリストを荒れ野へと送り出したのです。しかも、洗礼をお受けになってから「すぐに」です。

 新共同訳聖書では「すぐに」という言葉をあえて翻訳していませんが、原文には「直ちに」とか「すぐに」という言葉が使われています。この言葉は、マルコ福音書の中では、口癖のように出てくる言葉なので、「それから」ぐらいの意味と受け取ったのでしょう。

 確かにこの言葉は、この福音書の中では頻繁に繰り返されるので、言葉に重みがないといってしまえばそうかもしれません。けれども、文字通りその言葉を受けとるとすると、この荒れ野での誘惑の出来事の重みを理解することができると思います。たったの2節しか使われていない出来事の報告ですが、神の側からすれば、後へは延ばすことのできない大切な出来事であったということです。

 「そして、すぐに”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」

 父なる神にとって、この荒れ野での誘惑は、できれば先に延ばしておきたい事件でもなければ、先を急ぐあまり、うっかりサタンの罠に引っかかってしまったというものでもありません。

 「そして、すぐに”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」

 ここにはこれから起こる出来事の中に神の明確な意志があることを表しています。

 その場所が「荒れ野」であることもにも意味があります。イスラエルの民にとって、荒れ野は40年の試練をうけた場所でした。モーセによって約束の地を目指したイスラエルの民は、神に逆らい、神の御心に沿わない者たちでした。

 その同じ試練を再び受けるかのように、キリストは荒野へと送り出されました。

 実は、「送り出した」という表現も、原文の方ではもっと荒っぽい言い方です。あえて訳せば「投げ出された」「追いやった」ということです。「いってらっしゃい」といってやさしく送り出されたのではなく、少々強引に追いやられたのです。まるで、ライオンがその子を谷に突き落とすようなイメージかもしれません。

 モーセの時代の神の民イスラエルは、荒れ野での誘惑に負けてしまいましたが、イエス・キリストはその民に代わって再び試練を受けるために、荒れ野に追いやられたのです。

 マルコによる福音書の記事によれば、荒れ野では「40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」とあります。

 イスラエルの民が40年にわたって荒れ野をさまよったことと無関係ではないでしょう。

 ところで、先ほどから、この場面を「荒れ野の誘惑」と呼んできましたが、「誘惑」と「試練」とは物事の両面であるように思います。サタンの側から見れば、イエス・キリストの心を神の御心から引き離すことがその目的ですから、それはまさに誘惑です。しかし、同じ出来事は、その人を鍛錬し、神との結びつきをますます強めることになりますから、誘惑というよりは試練といった方がよいでしょう。実際、聖書の中では、同じ単語が、文脈によって「試練」と訳されたり「誘惑」と訳されたりしています。

 では、この試練をキリストは乗り越えられたのでしょうか。マルコ福音書ははっきりと言葉では述べていません。しかし、そうであることは明らかです。

 マルコ福音書にとって大切なのは、もちろん、サタンの誘惑に勝ったかどうかということもそうです。しかし、それ以上に、この荒れ野での試練を通して、ずっと「野獣と一緒におられ」「天使たちが仕えていた」ということです。特に「野獣と一緒にいる」というのは、不可解な言葉です。

 実はイザヤ書の預言には、実現した救いの世界では人が野獣とともにいる姿で描かれています(イザヤ11:6-8)。

 まさに、このお方こそ、サタンの誘惑を退け、わたしたちのもとへと遣わされてきた救い主なのです。