2017年11月16日(木) 神の国は近づいた(マルコ1:14-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「時」と「時間」という単語、同じようで違います。例えば、「時間が来た」といえば、何か予定していた時刻が来たという意味で使われます。イメージ的には時計の針がその時刻を指したときに、「時間が来た」ということになります。

 しかし、「時が来た」というときには、特定の時刻というよりは、よい機会が到来した、というニュアンスで使われるときがほとんどです。その場合の「時」は、時計の針では示すことができません。

 「時」といえば、たいていは「来る」ものであるか、「去っていく」ものです。あるいは「時」を得たり、「時」を失ったりという言い方もあります。しかし、今日取り上げようとしている箇所では、「時は満ちた」と表現されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章14節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 前回は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス・キリストが、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた話を取り上げました。きょうはそのイエス・キリストが宣教活動の第一声を上げる記事を取り上げます。

 マルコによる福音書では、宣教活動の第一声を上げたのは、「ヨハネが捕らえられた後」のことでした。洗礼者ヨハネの逮捕が、イエス・キリストの受洗の出来事から、どれくらいたって起こったのか、福音書の中にヒントになるような記述は残念ながらありません。おそらく、洗礼者ヨハネの出現からイエスの受洗まで、そして、ヨハネの逮捕からキリストがガリラヤで声を上げるまでの期間は、そんなに長くはなかっただろうと思われます。

 マルコの関心は、そのイエスの宣教活動が何年に始まったのか、ということよりは、そのことが起こったのが、「洗礼者ヨハネの逮捕」と深く結びついているということの方にあるように思われます。

 洗礼者ヨハネが逮捕されたという事件は、ある時代の終わりを意味するものです。先に遣わされたヨハネの働きが、大きなムーブメントを呼び起こしたことは、福音書自身が書き記していることですが、ユダヤ人の歴史家、フラヴィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」の中にも記されているとおりです(『ユダヤ古代誌』18:116-119)。

 ヨセフスはヨハネについて、次のように証言しています。

 「ヨハネは立派な人であり、ユダヤ人に正しい生活をおくり、同胞に対する公正と、 神に対する敬虔を実行し、洗礼に加わるよう教え勧めた」と。

 イエス・キリストの時代からそう遠く離れていないユダヤ人の歴史家が、そのようにヨハネの評価をしるしているのですから、洗礼者ヨハネの影響がどれほどのものであったのかということが想像できます。

 しかし、そのヨハネの活動にもヘロデ・アンティパスによる逮捕という終わりが訪れます。人間的な観点からすれば、これほどの影響力を持った人物が逮捕されてしまうことは、大きな損失です。しかし、神の目からすれば、ヨハネの使命はやがてやってくるキリストの道を備えることでしたから、その使命をなし終えたとき、歴史の舞台から姿を消すのは当然のことでした。

 もちろん、このようなむごい方法によらなくても、静かにヨハネを去らせるということもできたでしょう。しかし、神の御心に沿って遣わされた者が、人間の罪深い行いによって排斥されていく構図は、後のイエス・キリストの逮捕と十字架上での処刑を暗示するものです。

 いずれにしても、洗礼者ヨハネの時代が終わったことは、新しい時代の決定的な幕開けを指し示すものです。

 それにしても、何故、イエス・キリストはその最初の活動の場所を、ユダヤではなく、地方のガリラヤと定められたのでしょうか。もちろん、その答えは福音書の中には記されていません。イエスご自身が今までガリラヤのナザレで過ごされてこられた、ということもその理由の一つとして考えられるでしょう。

 あるいは、エルサレムの神殿から離れたこの地方こそ、苦しむ民が多くいた、ということとも関係していたのかもしれません。使徒言行録5章37節には、人口登録の時にガリラヤで民衆の反乱がおこったことが記されています。それほどまでに、ガリラヤに暮らす民衆が圧迫されていたということを物語る証拠です。

 そして、さらに言えば、このガリラヤは、洗礼者ヨハネを逮捕したヘロデ・アンティパスの領地でもあったということも見落としてはならない点です。

 けれども、イエス・キリストはヘロデ・アンティパスに抗議するためでもなく、民衆の解放を志す革命家としてでもなく、神の福音の宣教のために、ガリラヤへ赴きました。

 イエス・キリストが宣べ伝えたことは、非常にシンプルなメッセージでした。

 「時が満ちた」「神の国は近づいた」というのは、過去の出来事を言っているのではありません。まさに、今、このときに、時が満ち、神の国が近づいたのです。そして、その結果が今ここにいる人たちに及んでいる状態です。

 旧約聖書の時代から、神が預言者を通して語ってきた救いの歴史が進展し、コップに水が満ち溢れるようにして、定められた時が到来します。旧約聖書の歴史がまさにこの一点を目指して進んできました。人の目から見れば、それは長い歴史であり、神の存在が必ずしもいつも鮮明な歴史ではなかったかもしれません。しかし、それでも、神の救いの約束は滴る水のように一滴一滴、着実にコップを満たし、イエス・キリストの到来のときに、ついに満ち溢れるものとなったのです。

 「時は満ちた!」と告げるイエスの声は、なんと慰めと希望に満ちた言葉だったことでしょう。

 さて、イエスはさらに、神の国の到来を告げ知らせます。神の国とは、神が王様として支配なさる、その支配のことをさしています。今や、罪の力との戦いが、終わりを告げようとしているのです。

 ところで、イエス・キリストご自身、この「神の国の到来」ということを告げ知らせるときに、一方ではそれを現在の時のように語り、また、他方ではそれを将来のときのようにも語っています。

 例えば、マルコ福音書9章1節でイエス・キリストは「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と述べて、神の国の到来がまだ実現していない将来のことのように語っています。

 しかし、マタイ福音書の12章28節では「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と述べて、今まさに神の国が到来していることを告げています。しかも、ここではイエスの働きのあるところに、神の国がその姿をあらわすというように、イエスの存在と神の国の到来の関係が鮮明に述べられています。

 イエスが宣べ伝える神の国は、まさにこの二面性を持っています。神の国はやがて来るべき終末の時にその完成を待っているとはいえ、すでにイエスとともにわたしたちのところにその姿をあらわしているのです。

 イエス・キリストを迎え入れるところ、そこに神の国がやってくるのです。この神の国に入るために、悔い改めてキリストを心から信じ迎え入れましょう。