2017年11月30日(木) 権威ある新しい教え(マルコ1:21-28)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 学ぶことは、いくつになっても楽しいものです。「いや、そんなことはない」という人もいるかもしれません。

 確かに、暗記するだけの学びは、あまり楽しいものではありません。また、知っていることをただ繰り返すだけの学びも飽きてきてしまいます。今まで気がつかなかったことに気がつき、既成概念を覆すような刺激ある学びだったら、どうでしょう。そのような学びは楽しくて、わくわくするはずです。

 イエス・キリストと出会い、その教えや行動を見聞きした人たちは、今までにない新しい刺激に出会い、驚きを表しています。もちろん、みんながみんな、そのような気持ちになったとは言いません。批判的になった人たちがいたのも事実です。けれども、キリストの教えと御業に直面して、驚きの声を上げ、もっと関わりたいと願った人たちの数はけっして少なくなかったはずです。

 きょう取り上げる個所にも、イエス・キリストの教えと行動を見聞きした人々の新鮮な驚きが生き生きと描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 1章21節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 マルコによる福音書が書き記すイエス・キリストの宣教活動の第一歩は、カファルナウムにあるユダヤ教の会堂での出来事でした。カファルナウムは、ガリラヤ湖北西の湖岸に面した小さな村でした。弟子のペトロとアンデレもこの村の住民で(マルコ1:29)、漁を生業としていました。マタイの福音書によれば、イエス・キリストご自身も洗礼者ヨハネが捕らえられたあとは郷里のナザレを離れて、この村に住まわれたとあります(マタイ4:12)。

 近くにあった町ティベリアスがギリシャ化された町だったのに比べ、カファルナウムは生粋のユダヤ人の田舎の村でした。イエスの時代からはもっと後の時代のものになりますが、ユダヤ人の会堂の跡が今日なお残っています。

 さて、そのカファルナウムの村の会堂で、ある安息日にイエスが教えを説かれたということが、きょうの記事に記されています。残念ながら、具体的な教えの内容については、記されていません。ただ、この福音書のあちこちに記されているような教えをこの日にもしたのでしょう。それは、神の国に関するたとえ話であったかもしれません。

 マルコ福音書は具体的な教えの内容ではなく、むしろ、それを聞いた人々の反応に焦点を当ててこの日の出来事をまとめています。その人々の反応とは、「非常な驚き」であったということです。それはユダヤ教の律法学者たちの教えとは異なり、イエスが権威ある者として教えられたからです。もちろん、既存のユダヤ教の教師たちには今まで権威が感じられなかったというのではないでしょう。キリストの教えに権威を感じた後では、ユダヤ教の教師たちの影が薄れてしまったという方が正しいのかもしれません。

 では、イエスの教えのどういう点に人々は権威を感じたのでしょうか。その当時のユダヤ教の教師、ラビたちの教えの特徴は、モーセの律法の解釈を解き明かすということにありました。しかも、その際に大切なことは、モーセから連綿と続く先祖伝来の言い伝えを正しく伝えることにあったのです。「ラビ誰それはこう言った」「ラビ何某はこう言った」という具合に、歴代のラビたちの教えが引用されました。

 しかし、イエスの教えの特徴は、歴代のラビたちの教えに権威の源泉を求めるのではなく、ご自身が権威の源泉であり、イエス自らお語りになっているという点です。このような教え方は、当時のユダヤ人たちに新鮮な驚きを与えたに違いありません。

 また、ユダヤ教の律法学者は、モーセの律法の生活へ適用に主な関心がありました。しかし、それは時としてあまりにも煩雑になりすぎて、律法に示された神の御心を不明瞭にしてしまう危険がありました。それに対して、キリストはいつも「神への愛と隣人へ愛」という視点から律法に示された神の御心をお語りになりました。

 さらに、キリストの教えは、ただ単にモーセ律法の解釈と適用というばかりではなく、やがて実現する救いについての預言をも含んでいました。

 これは単に教え方の方法や形式が問題なのではありません。イエス自らが語る言葉に説得力があり、そして、その言葉を聞いた者たち誰もが、そのことを肌で感じたということなのです。

 このイエスの言葉は今なお変わることなく、聖書の中に収められています。今の時代のわたしたちでもその言葉にいつでも触れることができます。時代や文化の違いのために当時のユダヤ人が感じたようには伝わらない部分があったとしても、それでもなお、聖書から語りかけてくるイエスの言葉には、わたしたちの心を強く動かすものがあります。

 さて、マルコ福音書はこの日に会堂で起こった出来事をもう一つ記しています。イエスが汚れた霊を追い出されたという出来事です。イエスの教えが権威に満ちていたということを記すばかりではなく、イエスの存在そのものが権威をもったお方であることを示す事件です。

 この日の出来事は、今の時代のわたしたちには民間信仰の狐憑きや悪魔払いと同列におかれてしまうような事件かもしれません。実際、当時のユダヤ人たちの間でも様々な迷信的な儀式があったようです。もし、イエスのなさったことがそのような一連の儀式の一つであったとしたならば、人々の驚きはそれほどのものではなかったでしょう。

 ここでも、周りにいた人々を圧倒したのは、イエスから感じられる権威にあったのです。「黙れ。この人から出て行け」という一言で、神に敵対する勢力を退けてしてしまう権威を人々は見たのです。

 イエスはルカによる福音書の中で「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(11:20)とおっしゃっています。人々がその日イエスに感じ取ったものは、ただの悪魔払いの儀式なのではなく、権威ある神が、今ここで働いてくださっているという臨場感だったのです。人々はイエス・キリストを通して、神の力強さを間近に感じることができたのでした。

 この権威あるイエス・キリストを通して、今なお、わたしたちも神の力強さ、神の国の臨場感を味わうことができるのです。