2018年7月12日(木) 言わずにはおられない感動(マルコ7:31-37)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「黙っていなさい」と言われると、返って言いたくなってしまうのが人間です。秘密にしておきたいと思うことほど、同時に言い広めてしまいたくなるものです。もちろん、知りえた秘密を、あちこちで吹聴して回るのはもってのほかであることは言うまでもありません。

 黙っていることができないほどうれしい出来事や、感動的な事件というものがこの世にはあります。イエス・キリストのなさったことは、まさに黙ってはおられないほどの素晴らしい出来事でした。素晴らしいものを素晴らしいと感じ、不思議なものを不思議と感じる心には、むしろ黙っていることが不自然です。

 きょうお読みする個所にも、そうしたイエス・キリストの素晴らしいみ業を目の当たりにして、そのことを広めずにはいられない民衆の様子が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 7章31節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 先週はティルスの地方へ行かれたイエス・キリストについて学びました。今週は再びガリラヤ湖へと戻ってきたイエス・キリストのみ業を学びます。

 ティルスの地方を去って、「シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」という文章は、実際の地図と見比べながら読むときに、ちょっと不自然な感じがするかもしれません。聖書の舞台となっている場所の地理を知らない人が字面だけを読むと、まるで、ティルスからシドン、シドンからデカポリス、そしてガリラヤ湖までは一つの道でまっすぐ北から南へと結ばれているような印象を受けるかもしれません。しかし、実際には、一旦ティルス地方からシドンへと北上し、今度はずっと南へ下って、ガリラヤ湖の南西に広がるデカポリス地方を通り抜けたのですから、ずいぶんとおかしな道のりを歩いたことになります。そのために、しばしば、マルコによる福音書を書いた人物は、パレスチナの地理に疎い人間ではなかったのか、とさえ言われるほどです。もし、この部分をマルコが適当に書いたのだとすれば、なるほどマルコによる福音書の記者は地理に疎いということになるかもしれません。しかし、これが実際にイエスが取られた足取りだとすると、このような旅の仕方は、ほんとうに不思議な旅といわざるを得ません。

 さて、ガリラヤ湖を再び訪れるイエス・キリストのところに、一人の男が連れてこられます。この男は、耳が不自由で話すこともままならない人物です。人々はこの男の上に手を置いてくれるようにと願ってイエスのもとを訪ねます。「手を置く」というのは、当時のユダヤ人にとって二通りの意味がありました。それは一つには祝福のポーズでありました。また、もう一つには癒しを行うときのポーズでもありました。人々がどちらを期待してきたのか、はっきりとは記されていません。男を癒していただきたいと願っていたのかもしれません。あるいは、そうではなく、この哀れな男に、せめてもの祝福を与えてほしいと思ったのかもしれません。もし、祝福を願ったのだとすれば、その願い以上のことをかなえて下さったキリストのみ業は、彼らにとって、予想以上に大きな驚くべきものでした。37節に記されている、群衆たちの大きな驚きから考えると、この男を連れてきた人々は癒されるとまでは期待していなかったのかもしれません。

 あるいは、人々をお癒しになるキリストの噂は、みんなの耳にも届いていたことでしょうから、ここは、祝福ではなく、癒しを求めて連れてきたのかもしれません。もし、そうだとすると、自分のことをここまで気にかけてくれる人々に囲まれたこの人は、どれほど幸いだったことでしょう。キリストはこの男のためばかりではなく、この人をいつも気にかけてきた周りの人々のためにも、大きな御業を成し遂げてくださったということです。

 イエス・キリストはこの男の人を「群衆の中から連れ出した」とあります。キリストはこの1人の男の人と向き合います。この男を群衆の中の1人としてではなく、1人の人間として向き合われます。一対一になって、この男の必要をキリストは満たそうとされます。

 イエス・キリストはいなくなった羊のために、たとえ99匹の羊をおいておいてでも、その1匹の羊を探し、1匹の羊を世話するお方です。

 キリストは今もなお私たちに対して、私たちを同じように1人の個人として向き合ってくださいます。私たち一人一人を心に留めてくださいます。

 イエス・キリストはこの耳が聞こえず、話のできない人を「エッファタ」「開け」という一言で癒されました。このキリストの働きは、旧約聖書の預言者の言葉に精通していた人々には、すぐさまその意図がわかったはずです。神は預言者を通してこう預言されていました。

 「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う」

 これはイザヤ書35章5節以下の言葉です。

 このイエス・キリストの癒しの業は、他でもなく、このメシアの到来を預言するイザヤの言葉が成就したと考えることができるのです。

 ところで、5千人の群衆に対して食べ物を与えた話から、きょうの癒しの人々の反応を記した一連の記事と、その次の8章から始まる一連の記事、つまり、4千人の給食から始まって、目の見えない人の癒しの話、そして弟子たちの信仰告白の話を記した一連の記事は、明らかに関連していると見ることができます。どちらの一連の記事も、神への賛美と信仰の告白で頂点を迎えます。

 キリストが来られたのは、私たち一人一人と向き合って、その必要を満たしてくださるため、いえ、そればかりではなく、そのことを通して、私たちを信仰と賛美へと招き導いてくださっているということです。キリストを通して父なる神の慈愛にふれ、賛美と感謝の気持ちにあふれることこそ、神が私たちに願っておられることです。