2018年8月9日(木) 開かれた心と目(マルコ8:22-26)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ものが見えると言うのは、文字通りには視力の問題ですが、しかし、同じものを見ていても、そこから感じ取ったり、学んだりとなると、視力の問題ばかりではありません。ボーっと見ていて変化に気がつかなかったり、変化ばかりに気をとられて、本質的なものが見えていなかったり、そういうことはしばしば起こりがちです。

 先週学んだ聖書の個所には、イエス・キリストが弟子たちにかけた厳しい言葉が記されていました。

 「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」

 その言葉とは対照的に、きょうのお話はイエス・キリストによって目が開かれた人のお話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 8章22節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

 きょうの物語は、湖を渡った弟子たち一行がベトサイダという町に着いたところから始まります。この町はガリラヤ湖の北の岸に位置する町です。主イエス・キリストはコラジンと並んでこのベツサイダの町を不信仰な町として嘆かれたと、マタイによる福音書は記しています。

 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」(マタイ11:21)

 マルコによる福音書はこの町については特に何も記してはいません。しかし、このマタイ福音書に記されたイエス・キリストの嘆きの言葉から考えると、キリストがこの男を癒すときに、わざわざ一人村から連れ出し、そして、癒された後も、村へは戻らないようにと命じたのは、意味があってのことだと思わされます。

 さて、きょう取り上げる目の不自由な男を癒す話は、既に学んだ7章31節以下の耳の不自由な男の癒しの記事とセットで読むときに、キリストがなさったことの意味がより鮮やかになってきます。

 あの耳が聞こえず、舌が回らない人をイエス・キリストが癒されたとき、人々はすっかり驚いて「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と口々に言った様子が描かれます。その言葉を取り上げたときにも説明しましたが、ここには預言者イザヤの口を通して語られた、メシア到来の喜びの知らせが隠されています。

 つまり、預言者イザヤはメシアが到来したときに起こるしるしとして、こう述べています。

 「心おののく人々に言え。 『雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:4-6)

 イエス・キリストのなさる大きな奇跡の中に、この救いの到来が成就したと見ることのできる人は、本当に幸いなのです。

 しかし、この奇跡を前後してマルコによる福音書に描かれる人々の姿は、このような預言の成就を見落として、心を頑なにする様子が描かれています。最もキリストの側近くにいる弟子たちでさえ、さきほど引用したように、イエス・キリストから「見えないのか。聞こえないのか。まだ悟らないのか」と言われてしまうほどです。

 ところで、きょう取り上げる奇跡は、今までイエス・キリストがなさってきた奇跡と少し違った点があります。それは、今までキリストが病気を癒されたり、自然界に働きかけたりする奇跡は、どれも、たちどころに結果が現れるものばかりでした。しかし、きょうの奇跡は徐々に癒されていく様子が描かれる、珍しい奇跡です。

 最初は木のようにしか見えなかった人間が、やがてはっきりと見えるようになってくる様子が描かれます。

 何故、直ちにお癒しになることができなかったのか、あるいは、何故意図的にそうなさったのか、はっきりと記されてはいません。「何故」という疑問には答えられませんが、しかし、「たちどころに癒された」という言葉で今まで記されてきた奇跡と言うものが、実は癒される側の立場で見るならば、そこには言い知れない喜びが隠されているのだと言うことを、この物語は思い起こさせてくれます。

 この癒された男の人が第一声に発した言葉は、「人が見える。木のようだけど、歩いている」という言葉でした。

 ここには、まずこの人が見たものが、本当は人であるのか木であるのか、はっきりしないということが窺われます。木であるか人であるのか、見た目では判然としないけれども、しかし、ひょこひょこ動いている姿は、木ではあり得ないという認識です。

 この男の人が第一声に語ったことは、たったこれだけの言葉ですが、しかし、考えても見れば、最初に目にしたものが、人だろうか、木だろうか、と考えることができるのは、少なくとも、この人は生まれながら、目が見えなかったと言うわけではないと言うことを想像させます。昔は人も木もしっかりと区別することができた。しかし、何があったかわかりませんが、この人は視力を失い、キリストと出会うまで、かつての視力を取り戻すことはできなかったのです。徐々に癒されていくこの男の人の言葉にこそ、イエス・キリストがなしてくださったことが、どれほど素晴らしい出来事であるのかを雄弁に物語っているように思われます。

 開かれたのは、目だけではありません。信じる心も開かれ、目も開かれたのです。

 キリストがこの奇跡を行ったのは、確かに、預言者イザヤを通して預言されていたことが、成就するためでした。しかし、だからと言って、目の見えない人なら誰でもよかったというわけではありません。イエス・キリストはこの人を選び、この人を愛され、この人を癒してくださったのです。

 その同じ関心と愛をもって、イエス・キリストはあなたを扱ってくださいます。


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