2019年1月17日(木) 最後に遣わされたお方(マルコ12:1-12)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「最後」とか「終わり」という言葉は、とても重みを持った言葉です。これ以上先がないわけですから、これを逃したならば、もうその先はありません。

 聖書の中ではイエス・キリストは最初の人アダムに対して「最後のアダム」と呼ばれています(1コリント15:45)。あるいは、神の子イエス・キリストは、終わりの時に父なる神がこのお方を通してお語りになる最終的な啓示者として描かれています(ヘブライ1:2)。きょう、これから学ぼうとしている個所でも、イエス・キリストは最後に遣わされた者として、その特別な使命の重さが描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 12章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

 先週学んだ個所で、イエス・キリストはユダヤ人の指導者たちから「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問い詰められました。それに対してイエス・キリストははっきりとした答えを返さずに、逆に彼らに対して一つの質問を投げかけました。その質問はどう答えようとも、彼らの立場を危うくするものでした。それで彼らが「わからない」と答えると、イエス・キリストも「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」とお答えになりました。

 それが先週学んだ個所でした。

 ところが、きょう学ぶ個所では、実はたとえ話を用いて、ご自分が何の権威によってどのような使命をもって遣わされてきたのか、明白に語っていらっしゃいます。このたとえ話を聞いた指導者たちが「イエスは自分たちに当てつけてこのたとえを話された」と気づくくらいですから、イエス・キリストの答えは決してあいまいなものではありませんでした。

 そのたとえ話とは、あるぶどう園の持ち主と農夫の間におこった出来事として描かれます。旧約の預言の時代からそうでしたが、イスラエル民族はしばしばぶどうの木に譬えられます。そしてそのぶどう園の主人は聖書の神ご自身を表しています(イザヤ書5章参照)

 イエス・キリストがお語りになった譬え話には、ぶどう園とぶどう園の主人のほかに農夫が登場します。それはぶどう畑であるイスラエルの世話を任されているイスラエルの指導者たちということになるのでしょう。つまり、このたとえ話は神とイスラエルとその指導者たちにかかわるたとえ話です。

 神は収穫を求めて僕たちを農園に遣わしますが、先に遣わされた僕たちとは、神の預言者たちを指し示しています。神は色々な時に色々な方法でご自分の御心をイスラエルに語ってきました。しかし、イスラエルを指導すべき指導者たちは、神の預言者の声に耳を傾けず、かえって預言者を迫害し、殺しさえしました。

 そこで、農園の主人は最後に自分の息子を遣わします。つまり、神は最後の手段としてご自分の愛する独り子、イエス・キリストをお遣わしになったのです。ところが農夫たちはそれさえも殺してしまおうと企み、実行に移します。

 このたとえ話を通して描かれていること、それはただのぶどう園での出来事ではなく、神とキリストとイスラエルの国にかかわるたとえ話なのです。

 このたとえ話を通して、イエス・キリストは神から遣わされた者、しかも、最後の者であることが明らかにされます。つまり最終的な使命を帯びた方として父なる神のもとから遣わされているのです。そればかりではありません。遣わされてくる最後の者は、今まで遣わされて来た者たちとは全く違っています。それは神の愛する独り息子なのです。

 このたとえ話は当時のイスラエルの指導者たちに宛てて語られたれたたとえ話であるといいましたが、しかし、今のわたしたちに関係のないお話ではありません。神のもとから遣わされたイエス・キリストはわたしたちにとっても神からの最後の使者なのです。このお方より後にはもう誰もいないのですから、イエス・キリストとどう向き合うのか、一人一人が選択しなければなりません。

 ところで、イスラエルの指導者たちが選んだ道、それは神から遣わされ最後の使者イエス・キリストを拒む道でした。ところが、この人間の罪深い業も、神の深遠なご計画の中に置かれていることをイエス・キリストは聖書を引用して明らかになさいます。

 引用される聖書の個所は詩編118編です。

 「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」

 キリストを退けた者たちにとっては、イエス・キリストを逮捕し、殺害したことは自分たちの力の勝利と思えたことでしょう。けれども、決してそうではありませんでした。彼らが退けたと思った石が、隅の親石となったのです。キリストは十字架の死からよみがえられ、教会の礎となられます。神は人間の罪さえも克服してご自身の計画を果たしてくださいます。だから人間の側の選択や行動がどうでもいいというのではありません。むしろ、ここまで権威をもって救いを完成してくださるお方であるからこそ、このお方に最初から従っていく必要があるのです。