2019年1月31日(木) 復活をめぐる論争(マルコ12:18-27)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 常識ではありえないことを話題にするというのはとても難しいことです。というのも、わたしたちがものを考えるときには、理性を働かせて、常識的にものを考える習慣が身についているからです。そのお陰で、様々な迷信や間違った考えから解放されているのも事実です。もし、常識で考えられないことを、そのまま鵜呑みにしてしまえば、たちまち洗脳されてしまいます。

 しかし、常識だけを信じて疑わないとすれば、地動説も相対性理論も量子論も発展しなかったはずです。もっとも、科学的な真理はやがては常識になってしまうので、宗教上の真理とは性格が違うかもしれません。

 たとえば、神は存在するのかどうか、ということは、果たして常識なのか非常識なのか難しい問題です。奇跡は常識なのか非常識なのか、これも難しい問題です。そういった事柄を受け止めた上でものを考える人と、そうではない人との間では、神の存在や奇跡のことを話題にしても、これは天地の差ぐらい、議論がかみ合いません。

 きょう取り上げる個所では、復活についての議論が出てきます。同じユダヤ人でも復活を信じている人とそうではない人がいたからです。さて、イエス・キリストはこの復活についての議論に、どのようにお答えになったのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 12章18節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、7人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、7人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。7人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 前回に引き続き、キリストの敵対者たちとの議論が取り上げられます。テーマは今回も宗教的な事柄に関することですが、質問者たちの意図は明らかです。それは、真理を探究するという謙虚な目的ではなく、むしろ、あからさまにイエス・キリストを論破するためのものでした。

 きょう取り上げる個所にはサドカイ派の人々が登場します。このサドカイ派の人たちは、どちらかといえば特権階級の人々が所属する派閥で、保守的で妥協的なものの考え方をする人たちであると言われています。特に神殿と深く結びついていた派閥の人々です。

 信仰的には、天使や霊や復活というものを信じていませんでした。そういう意味では先週登場したファリサイ派とは信仰的にも政治的にも対立していました。

 しかし、きょうの個所でこのサドカイ派の人々が登場するのは、キリストを論破するためでしたから、この点ではファリサイ派の人々とは目的が同じです。いえ、ファリサイ派とヘロデ派の連合チームがキリストを論破できなかったと知って、今度は自分たちの番だとばかりに登場してきたかのようです。

 死者の「復活」ということが、ユダヤ人にとって共通の信仰ではなかったということに関しては、それほど驚くには当たらないかもしれません。旧約聖書全体を見渡した時に、死人の「復活」について触れられている個所はごく限られているからです。神の啓示の全体からすれば、復活信仰ということは否むことが出来ないほどはっきりと語られていますが、しかし、たとえば彼らがもっとも重んじていたモーセの律法の中だけで考えれば、復活に対する期待はほとんど見当たりません。むしろ、復活にかかわる神の啓示は、時代とともに明らかになっていきます。言ってみれば、サドカイ派の人々が信仰を組み立てていたのは、初期の頃の神の言葉に重きをおきすぎていたということなのです。

 サドカイ派の人々が繰り広げる復活否定説は、彼らなりの常識によるものでした。それは、死者の復活が本当にあるとすれば、現在の制度に矛盾が生じてしまうというものでした。具体的にはモーセの律法が命じるレビレト婚と呼ばれる婚姻制度が、復活によって予想外の事態になってしまうというものです。

 レビレト婚というのは、自分の兄弟が後継ぎのないまま死んでしまったとき、弟は兄嫁を娶り、兄のために子孫を残すというものです。

 サドカイ派の主張によれば、モーセの律法が命じているこの婚姻制度は、復活によって混乱してしまうというのです。つまり、復活が起こったとき、レビレト婚で娶られていった妻は、いったい誰の妻となるのかということです。

 この議論はなるほど、復活の矛盾点をついているように見えるかもしれません。しかし、議論自体が復活ということを最初から否定するための愚かな空論でしかありません。

 イエス・キリストはその点をまず、鋭く指摘なさいます。

 「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 そもそもサドカイ派の人々にとっては復活も天使も最初から頭の中にはなかったのですから、天使のようになるというイエス・キリストの答えそのものも理解しがたかったと思われます。彼らの考えの貧しさは、つまるところ、あまりにも現実的なこの世だけの発想に縛られていたということなのです。それは丁度、地面の上を這う芋虫が、空からものを見る鳥の話を最初から理解できないのに似ています。

 イエス・キリストが指摘したもう一つの点は、彼らの神観念にかかわるものでした。イエス・キリストにとって、神は生きている者の神なのです。決して死んだ祖先の神ではありません。聖書の中で神が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とご自分についておっしゃるとき、神は死者の神としてではなく、死者をも生かす契約の神としてご自分を示しておられるのです。神の約束は人間の死をもって終わるのではなく、死者をもよみがえらせて、その祝福の約束は永遠に続くのです。

 結局、わたしたちの頭で考える神の存在が、いかに小さなものであるのか、そのことが明らかにされています。そして、そのような自分サイズの小さな神しか信じられないのだとすれば、大きなことをなさる神に信頼して従うことも出来なくなってしまうのです。