2019年3月21日(木) 気をつけていなさい(マルコ13:14-23)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 世の終わりのことについての教えと言うことを聞いただけで、何か恐ろしいことを想像してしまいます。まして、実際そこに描かれる内容が、少しでも恐怖を抱かせるようなことがあれば、もう恐怖心だけが先走って、肝心のことを聞き逃してしまうほどです。

 今日これから取り上げようとしている個所は、イエス・キリストが教えてくださった、世の終わりについての教えです。今まで学んできたことよりもいっそう言葉に恐さが増しています。けれども、それ以上にわたしたちを慰め励ます言葉もちりばめられていることを見逃してはなりません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 13章14節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら…読者は悟れ…、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 引き続きマルコによる福音書の13章から学んでいます。きょうの個所はいきなり謎めいた言葉で始まっています。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら…読者は悟れ…」

 憎むべき破壊者とは一体誰のことなのでしょう。立ってはならないところとはどこのことでしょう。そしてまた読者は一体何を悟れと命じられているのでしょうか。

 いきなり目を丸くしたくなるようなキリストの言葉です。

 実はこの「憎むべき破壊者」という表現は旧約聖書の預言書、ダニエル書から来ている言葉です。ダニエルもまた憎むべき破壊者について預言をしました。ダニエルの時代以後、ユダヤの歴史の中で、エルサレムの神殿が外国の敵によって冒涜的な仕打ちを受けたことは、何度かありました。その度に、このダニエルによって預言された言葉が思い起こされたに違いありません。しかし、イエス・キリストはそうした過去の事件ではなく、これからまだ起こるべきこととして、憎むべき破壊者のことを述べています。

 そもそも、イエス・キリストが世の終わりのことについて語りだしたのは、弟子たちの質問がきっかけでした。その質問とはいつ神殿の大きな石がことごとく破壊されてしまうかという質問でした。

 それに対するイエス・キリストの答えは、ただ、神殿の破壊と言う事件だけではなく、世の終わりまでを見据えたものでした。

 そういう文脈の中で「憎むべき破壊者」のことを考えると、一方では実際の神殿の崩壊の予告のようでもあり、また、イエス・キリストの時代よりももっとずっと先のことを言っているようにも取れます。

 神殿の破壊の予告と言うことだけを考えれば、キリストの預言のときから40年ほどして、エルサレムの神殿はローマ軍によってことごとく破壊されてしまいました。

 さてこのような危急の時に、イエス・キリストはユダヤにいる人々は山に逃げなさいとおっしゃいます。この勧めの言葉は、ある意味でとても興味深い言葉です。

 実はローマとの戦いが始まろうとしていた頃、ユダヤ人の歴史家ヨセフスの記録によれば、エルサレムの神殿の扉が誰開けるともなく、ひとりでに開いたと言う事件があったそうです。ある人々はこれこそ神がエルサレムにやってこられたしるしだと考えて、都に留まってローマ軍と戦うようにと人々を扇動したそうです。ヨセフス自身もその尻馬に乗って悲惨な戦争に参列するのですが、後になって、そのような間違った判断を後悔しています。

 そのような扇動された人々の行動と比較して、イエス・キリストの教えはとても際立っています。

 イエス・キリストにとって世の終わりは、人が手で繰り寄せたり、ふんばったりしてできるようなものではありません。むしろ、人間には逃げることしか出来ません。それは一刻の猶予も許されない、そういう事態です。自分一人のことを何とかするのが精一杯で、とても他の人のことまで面倒見れるほど余裕もないくらいの苦難です。

 イエス・キリストの言葉をそのまま借りれば、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」です。

 さて、このような苦しみが訪れることを耳にすれば、誰しも心がわななき、気持ちもすっかり萎えてしまうことでしょう。

 けれども、イエス・キリストがこのことをお語りになったのは、弟子たちを恐怖のどん底に落とすためでは決してありません。むしろ、今だかつてない、また、今後も起こりえないような苦難が押し寄せる時も、神がご自分の民のために計らっていてくださることを確信させるためでした。

 その期間が長引けば、誰一人として助かることが出来ないような苦しみの中にあって、神はご自分を信じる者たちのために苦しみの期間を短くしていてくださっています。世の終わりの時に押し寄せる艱難や苦難の中でも、けっして神はご自分の民をお忘れにはなりません。

 だからこそ、イエス・キリストは「あなたがたは気をつけていなさい」とおっしゃるのです。わたしたちが気をつけていられるのは、神が私たちを気遣っていてくださるからです。そのために苦難の期間を縮めて下さるお方がいらっしゃるからです。

 ただ単に、世の終わりの時に起こるいろいろな出来事やしるしが前もって知らされているから、気をつけていられるのではありません。そうではなく、そのようなご計画を知らせ、わたしたちを支えて耐え忍ばせてくださるお方がわたしたちと共にいることを知っているからこそ、惑わされず気をつけていることができるのです。