2019年6月27日(木) ペトロの弱さ(マルコ14:66-72)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨーロッパの古い教会の尖塔には、十字架ではなく、風見鶏が据え付けられているのを目にすることがあると思います。風見鶏自体は紀元前のギリシアの時代にさかのぼるものらしいですが、教会のシンボルとして登場するようになるのは9世紀以降だそうです。時のローマ教皇がすべての教会に風見鶏をシンボルとして据え付けるようにと命じたのが始まりとされています。

 風見鶏を教会の尖塔に据え付ける意味は、言うまでもなく福音書に記されたペトロの失敗を繰り返さないというための警告としてのシンボルです。

 きょう取り上げようとしている個所は、鶏が二度鳴く前に三度キリストを知らないと否定するペトロのお話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章66節〜72節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

 先週学んだ大祭司の前で裁かれるイエス・キリストの態度とはまったく対照的な場面がきょうの個所では描かれます。自分に不利な証言や尋問にもまったく動ずることなく堂々としているキリストの姿とは対照的に、おどおどとうろたえ、ついにはのろいの言葉まで口から出して白を切ろうとするペトロの姿。最後の晩餐のあと、このペトロはイエス・キリストに対して「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語したあのペトロとは思えない姿です。

 ペトロにとってはいつまでも語り継がれたくはない失態ですが、あえて、教会がこの話を福音書に語り継いだのには二つの理由があってのことでしょう。

 その一つは、イエス・キリストの言葉の正しさを証明するためです。最後の晩餐を終えてオリーブ山に向かう途中、イエス・キリストがおっしゃったことはこうでした。

 「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」

 旧約聖書の言葉が正にイエス・キリストの上に起ろうとしているということです。その言葉に対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」とあえて反論したのがペトロです。しかし、そのペトロの反論も結果としてはむなしく終わり、キリストの言葉の正しさが証明されます。

 こうして、旧約聖書に預言されたお方としてのイエスの姿がいっそう鮮やかとなります。

 しかし、もう一つの理由は、やはりわたしたちへの警告です。あれほどまでに、イエス・キリストの前で啖呵を切るほどの勇ましいペトロが、ほんの数時間もたたないうちにこんなにまで弱々しい態度に変わってしまうのは、なんともいぶかしく感じます。

 たとえ、それが旧約聖書の預言の言葉の成就であったとしても、その一番の原因はやはりゲツセマネの園でのペトロの姿勢が大きく関わってることは否定できません。

 イエス・キリストが祈りの中で力を得て「立て、行こう」と勇ましく立ち上がったのとは対照的に、ペトロや他の弟子たちは眠りこけていたために、十分な祈りの備えもないまま、突然と襲い掛かった事件にどうしてよいかわからなかったのです。

 確かに、ペトロは他の弟子たちとは違って、逮捕されたイエスの後を追って、大祭司の屋敷の中庭までやってきていたのですから、その点では自分の言った言葉のとおり、「たとえ、みんながつまずいても」自分はつまずかなかったのでしょう。

 けれども、ついては来たものの、ペトロの心は決して穏やかな平安なものではありませんでした。大祭司に仕える女中の一人の言葉にすっかりうろたえてしまいます。

 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」

 ペトロのうろたえようは、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし見当もつかない」という饒舌な言い方に現れているばかりか、その場にじっとはしておられずに、ついには出口の方まで行ってしまうペトロの行動に現れています。

 ここで一度目の鶏が鳴きます。けれども、まだ、ペトロの心には鶏の声は響きません。イエス・キリストの言葉も思い出されません。

 同じ女中から「この人は、あの人たちの仲間です」といわれると、今度は一度ならず繰り返し否定しつづけます。ペトロの動揺は隠し切れないほどです。

 さらにはその場に居合わせた人々からも疑いをかけられてしまいます。

 「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

 ペトロがガリラヤ出身であったことは、マタイによる福音書によればその言葉遣いから知ることが出来たようです。といっても、その場に居合わせた人々の断定は、ただの推量の積み重ねに過ぎません。言葉遣いがガリラヤの人だというだけで、イエス・キリストの仲間と断定したのですから、怯える必要もないことです。なんとなれば、過越の祭りの期間中には数え切れないほどのガリラヤ人がいたはずです。

 しかし、ペトロは輪をかけたように、ついにはのろいの言葉までも口にして、イエス・キリストとの関係を否定してしまいます。

 そのときです。二度目の鶏が鳴き、ペトロはいきなり泣きだしました。

 ペトロが泣きだしたのは、ただ単に鶏が鳴いたからではありません。そうではなく、鶏の鳴き声を契機としてキリストの言葉を思い出したからです。ペトロにとってキリストとの関係を否定したことは消し去ることの出来ないほどの汚点です。しかし、キリストの言葉を心の中から完全に消し去っていなかったことはせめてもの救いでした。ただ単に自分がイエスを知らないと三度言うであろうというその言葉ばかりではなく、その言葉も含めて、イエス・キリストが今までおっしゃってきた言葉の意味をもペトロは思い返したことでしょう。

 人間の弱さは簡単には克服できません。しかし、せめてキリストの言葉を響かす心をもちつづけ、涙する心を失わないことはとても大切です。キリストの深い愛だけが、そのように私たちの心を開き、私たちを真の悔い改めへと導いてくださいます。