2019年11月28日(木) 長老に対する敬意(1テモテ5:17-25)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 古代教会には長老と呼ばれる人々がいました。文字通りには、ある年齢を経た人々です。実は5章1節で「老人たち」と訳されている言葉と「長老たち」という言葉は同じ単語です。

 旧約聖書の世界にも、また、ユダヤ教にも登場する言葉ですから、キリスト教会特有のものではありません。むしろ、旧約時代から培われてきた制度をキリスト教会も取り入れて発展させてきた、といったら良いかと思います。

 この手紙の3章に登場する「監督」の職は、この「長老」の職と同じと考えられることは、すでにそのとき説明した通りです。そして、選ばれた長老たちの手によって教会の運営を行う制度を取る教会を「長老主義教会」と呼んでいます。この番組を提供している日本キリスト改革派教会も長老制を採用している教会です。

 きょうとりあげようとしている個所には、この長老のことが取り上げられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 5章17節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは2倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、「脱穀している牛に口篭をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。
 ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。

 この個所で取り上げられている「長老」は、冒頭でも言いましたが、「老人」という単語と同じです。しかし、ただ年を取ってる人、という意味ではなく、教会の中で時別な役割を担った人を指しています。

 それは、指導的な立場にある人、特に御言葉と教えのために労苦している人たちのことが取り上げられています。現代の教会に当てはめて言えば、主の日ごとに講壇から御言葉を解き明かし、信徒たちを教育し、訓練する牧師たち、と言い換えてもよいかもしれません。

 パウロは、この人たちを「2倍の報酬を受けるにふさわしい」と考えるべきだと言います。

 ここで、二つのことを考える必要があります。一つは、ここでいう「2倍の報酬」とはどういう意味なのか、ということ。もう一つは、なぜ、そもそもそんなことをいう必要があったのか、ということです。

 まず、最初の点ですが、「報酬」と訳されている言葉は、「尊敬」とか「栄誉」という意味にも使われる言葉です。本来の意味は、価値に対して支払われるべき対価という意味ですから、「報酬」という訳があながち間違いとは言えません。

 あとに続く文章の言葉も「報酬」という翻訳を支持しているように見えます。つまり、「脱穀している牛に口篭をはめてはならない」という言葉の意味は、脱穀している牛は、脱穀した穀物を自由に食べることができる、という意味です。これは旧約聖書申命記25章4節からの引用で、牛でさえ脱穀の報酬を得ることができるのであれば、まして教会の指導者がその働きから報酬を受けるのは当然であるということを言おうとして引用しているように受け取れます。

 続く言葉もその解釈を支持しているように思えます。「働く者が報酬を受けるのは当然である」という言葉は、イエス・キリストが弟子たちを派遣するにあたって語った言葉を思い起こさせます。マタイによる福音書10章10節でキリストは「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とおっしゃいました。

 けれども、「2倍の報酬を受けるにふさわしい」という言葉を、文字通り「2倍の給与に値する」と読んでしまって良いのか疑問が残ります。むしろ、現実的な「報酬」という意味ではなく、比ゆ的な意味で「尊敬」や「栄誉」という意味に理解した方が良いように思います。

 19節の言葉は、それを支持しているように思えます。そこには、長老たちに反対する訴えを軽々しく受理してはならないことが記されています。

 実は「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはならない」という教えは、旧約聖書の律法では、誰に対してもそう定められています。申命記19章15節にはこう記されています。

 「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」

 なぜ、こんな当たり前のことであるにもかかわらず、わざわざ長老たちに対する訴えに関して、注意を喚起しているのでしょうか。

 それは言い換えるなら、長老たちはスキャンダルの標的にされがちであったということの証でもあるように思います。その働きが重要であればあるほど、一人の人間が言い出した根拠のない噂は、興味本位からあっという間に信じ込まれてしまいがちです。長老たちに対する尊敬の気持ちがないところでは、いっそう噂の波及力は大きいことでしょう。

 そうであればこそ、長老たちに対して、2倍の敬意を払う必要を訴え、冷静になって長老たちに対する訴えを処理するように勧めたのでしょう。

 この手紙は老練のパウロから若い労働者テモテに宛てた手紙です。若いテモテが、自分よりも年上の長老たちに対する訴えを扱うというケースは、皆無ではなかったはずです。長老に対する2倍の尊敬がなければ、軽々しく訴えを受理してしまう危険があります。しかし反対に、長老たちの顔色ばかりを気にしていたのでは、御言葉の真理に生きることはできません。テモテにとっては、胃を痛めるくらいストレスフルであったことと想像されます。

 ぶどう酒を用いるように勧めるパウロの言葉は、そういう意味で、決して取って付けたような言葉ではありません。

 しかし、パウロはそのすぐ後で、最終的には神がすべてを明らかにしてくださることを述べます。人間には限界があるからこそ、すべてを正しく裁かれる神に委ねて歩むことが大切です。そのとき、平安な心持で牧会にあたることができます。