2020年6月11日(木) 聖霊と救いの保証(エフェソ1:13-14)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 救いを求める人にとって、どんなにその救いの内容が素晴らしく、壮大なものであったとしても、それが自分のものとならなければ、ただの絵に描いた餅にすぎません。救いは「わたし」という人間が手に入れてこそ意味のあるものです。

 そして、その救いは、途中で失われてしまうような不確かなものであっては意味がありません。もちろん、その場合、救いそのものが確かであるということは言うまでもありませんが、それを受け取る人間の側の確かさも必要です。信仰にとどまり続けるとしたら、その力はどこから来るのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章13節と14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

 きょう取り上げた個所もまた、1章3節から続く神への賛美の言葉の続きです。

 キリスト教会が「神」という言葉を使うとき、それはただお一人の神であると同時に、父と子と聖霊の三位一体の神を指しています。そのような、三でありながら同時に一であるような存在は、神以外にはいらっしゃいませんから、どんなにうまく説明しようとしても説明しきれるものではありません。

 実は3節から続いている神への賛美の言葉の中に、何の説明もなく、「父なる神」「愛する御子」、そして今日の個所には「聖霊」という言葉が登場します。

 一つ一つの言葉について詳しく取り上げるのは、この短い時間の中ではとてもできません。ただ覚えておいてほしいことはは、「父」「御子」「聖霊」について一言も触れずに、パウロは救いの恵みについて神を賛美することはできなかったということです。わたしたちの救いには、「父」「御子」「聖霊」の三位一体の神が深く関わってくださっているということ、そのことを頭の片隅に置いて、今日の個所を読み進めていきたいと思います。

 さて、今日の個所では、今までと違って、「あなたがた」という言い方が突然出てきます。今まで、パウロはずっと「わたしたち」を使って来ました。おそらくこの手紙の読者は「わたしたち」という言葉の中に自分たちのことも含まれていると思ってきたことでしょう。いきなり出てくる「あなたがた」という言葉に戸惑いを覚えたかも知れません。

 「わたしたち」と「あなたがた」の区別は、手紙の差出人と受取人という区別だけではなさそうです。この手紙の中で使われる「あなたがた」には、確かにこの手紙の受取人という意味で「あなたがた」を使っている場合があります。たとえば、2節の「恵みと平和があなた方がたにあるように」という場合の「あなたがた」は、単にこの手紙の受取人を指していることは明らかです。

 けれども、この手紙を読み進めていくと、この手紙の受取人である「あなたがた」が、異邦人であることがわかります。たとえば「あなたがた異邦人」(3:1)という表現とか、「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」(2:11)という表現など、この手紙の受取人が、異邦人から改宗してクリスチャンになった人たちであることがわかります。

 おそらく、3節以降に出てきた「わたしたち」という言葉の中には、ユダヤ人クリスチャン、異邦人クリスチャンという区別はなかったと思われます。しかし、12節に出てくる「以前からキリストに希望を置いていたわたしたち」という言い方に対して、後からキリストに希望を置くようになった異邦人クリスチャンという意味で、「あなたがた」という言い方になったのだと思われます。

 しかし、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には、本質的な違いはありません。両者ともキリストにおいて福音を聞き、救いにあずかるものとされたという点で同じです。

 今までパウロは救いについて語るとき、「天地創造の前に選ばれた」とか「前もって定められた」という表現を使ってきましたが、それは異邦人クリスチャンにとっても同じです。クリスチャンになったのは、後先があるかもしれませんが、そのことは神の深いご計画の中では、前もって定められてきたことでした。

 そして、そのことが歴史の中で実現するのは、まず、「真理の言葉」、「福音」に触れることから始まります。これはとても大切なことです。彼らは知らない間にクリスチャンになるのではありません。福音に触れることを通して信仰へと導かれたのです。

 パウロはローマの信徒への手紙10章17節の中でこう述べています。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 まことの神を知らなかった異邦人も御言葉に聞くことによって信仰が芽生え、キリストを信じて、神の国を受け継ぐ者とされるのです。そうであればこそ、福音の宣教の働きは大切な働きとして、今日に至るまで続けられています。御言葉を離れて信仰を期待することはできません。しかし、御言葉が解き明かされるところ、御言葉が聞かれるところでは、救いの恵みが現実の歴史の中で力強く実を結びます。

 そればかりではありません。パウロは、「あなたがた異邦人も約束された聖霊で証印を押されたのだ」と言って憚りません。

 ユダヤ人たちは、まことの神を知らない異邦人たちは汚れた民だと思ってきました。しかし、異邦人たちも福音を信じるとき、キリストによって罪から解放されて、確かに聖なる者とされるのです。この救いは聖霊によって証印を押されているとパウロは語ります(13節)。また、聖霊は神の国を受け継ぐための保証だともパウロは言います(14節)。

 「証印」とは第三者に対して公的な効力を持つものです。信仰をもって救われるというのは、自分の思い込みではありません。神は聖霊の証印を与えることで、その救われた者が正真正銘、神のものとされたことを公に示してくださっているというのです。「保証」という言葉も同様に、救いの確かさを示しています。

 神は信じる一人一人に聖霊をお与えくださり、確かに救われた者であることを保証してくださっています。そのような確かな救いをお与えくださっている神を心から賛美する者となりましょう。