2020年10月22日(木) 主人と奴隷たちへ(エフェソ6:5-9)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「奴隷」という言葉を聞いて、たいていの人が思い浮かべるのは、16世紀から19世紀にかけて、アフリカの諸地域から連れてこられた奴隷たちのことではないかと思います。特にアメリカ大陸に連れてこられた奴隷たちについては、その解放運動を巡って南北戦争にまで発展しました。奴隷制度は廃止されたものの、アフリカ系の移民とその子孫に対する差別は今でもアメリカの社会問題となっています。

 しかし、今日取り上げる個所に登場する「奴隷」という言葉は、ローマ時代の奴隷のことで、近世の奴隷とは全く異なる人たちです。ただ、主人の所有物であるという点では、共通しています。もちろん、奴隷制度そのものがない今の日本に生きるクリスチャンたちにとって、きょう取り上げようとしている個所は、どのように今を生きるわたしたちに適用できるのか、あるいはできないのか、そのことを注意深く考える必要があるように思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章5節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

 今日取り上げた個所は、ローマ時代に存在した奴隷制度を前提としています。ローマ帝国全体から見ると、奴隷の占める割合は相当数に上ったといわれています。というのも、自ら働いて金銭を得ること自体を卑しいを考えたローマ人にとっては、あらゆる仕事が奴隷の仕事でした。それは必ずしも肉体労働に限らず、場合によっては医者や教師たちも奴隷の仕事でした。ローマ社自体が奴隷の存在なくして成り立たない、そういう社会でした。

 そういう重要な存在であったにも拘わらず、奴隷の扱いについては、冒頭でも述べた通り、基本的には主人の所有物にすぎませんでした。「物」にすぎないのですから、奴隷については人権などという発想が出てきません。

 もちろん、主人がどういう人物であったかによっては、人間らしい扱いを受けた奴隷たちもいましたし、主人の計らいによって解放された奴隷たちもいました。しかし、ほんの些細な失敗を理由に、生命の危険にさらされた奴隷たちがいたことも事実です。現代的な目で見れば、そうした奴隷制度自体を黙認しているのは許しがたいことです。

 しかし、奴隷制度について積極的に批判していないこの個所を理由に、聖書は奴隷制度を認めていると結論付けることは、的外れな理解です。パウロが書いている事柄は、今置かれているそれぞれの立場の中で、それぞれの人間関係をどう信仰者として生きるのか、ということが主題です。奴隷制度そのものを否定し、抵抗すべきだと、奴隷たちに勧めることもできたかもしれません。しかし、その当時の時代背景から考えて、それを直ちに実行すれば、奴隷たちの命に危険が及ぶことは明らかです。また、それは非現実的なことでもありました。そうした時代背景を念頭に、今日の個所を読み進めなければなりません。

 ところで、きょうの個所は奴隷と主人に対する勧めの言葉ですが、奴隷制度そのものがない社会に生きるクリスチャンにとっては、もはや意味のない勧めの言葉でしょうか。決してそうではありません。この関係は、雇用者と被雇用者、上司と部下の関係に拡大して当てはめることができると思います。

 パウロは奴隷たちに対して、こう命じます。

 「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」

 これは、5章21節でパウロが述べた言葉を拡大した表現です。そこではこう述べられていました。

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」

 きょうの個所で使われている「恐れおののき」という表現は少し大げさに感じるかもしれません。しかし、ローマ時代の奴隷たちは、先ほども述べた通り、医者や教師もいました。場合によっては主人よりも教養が高いという人もいました。そうでないとしても、理不尽な主人に対しては、軽蔑の思いこそ募っても、尊敬の念など生まれるはずもありません。けれども主人をバカにして恐れない人間関係からは決して良いものは生まれません。そういう意味で、あえて「恐れおののき」という強い言葉を使っているのでしょう。

 もちろん、事なかれ主義を貫くのであれば、表面上、主人にへつらえばそれで済むことかもしれません。多くの人間関係では、本音と建て前をうまく使い分けて、人間関係を円滑にするのが知恵だと思われています。

 しかし、パウロは、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と命じます。

 パウロの頭の中にある思いは、ただ円滑な人間関係のことだけではありません。自分に与えられた賜物を主のためにどうよりよく用いるのか、という視点です。肉の主人を喜ばせる前に、キリストによりよく仕えることが出発点にあります。その思いがないならば、肉の主人によりよく仕えることなどできません。

 しかしまた、その逆も真理です。この地上での働きを飛び越えて、主にだけ仕えることはできません。どんなに些細な事柄であれ、そこに主の御心を見出し、自分に与えられた働きを忠実に果たしていくことも大切です。

 パウロは同じように奴隷の主人たちに対しても、こう命じます。

 「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。」

 「同じように」というのは、主に対する尊敬をもって、奴隷たちを扱うようにという意味でしょう。

 ここでは、明らかにローマ人たちが普通に考えていたことが、否定されています。奴隷はもはや「物」ではありませんし、「主人の所有物」でもありません。一人の人間として、敬愛の対象なのです。

 パウロは奴隷の主人に対して、奴隷たちを脅すことを禁じています。脅すのは威圧によって自分の支配を実行するためです。それは、相手が人格を持つ一人の人間であることを否定することです。主人としての威厳を保つことは大切かもしれません。しかし、威圧をもって仕えさせることはキリストの模範とも相いれない行いです。キリストは、上に立つ者は、仕えられる者ではなく仕える者であることを弟子たちに命じていました(マルコ10:43-44)。

 最後に、主人たちに対して、地上の奴隷にも地上の主人にも、天には等しく主なるお方がおられる事実を思い起こさせています。この地上でこそ立場や身分の違いがあるかもしれません。しかし、神の御前では、皆、創造主である神に造られた一人の等しい人間です。神によって造られ、神によって贖われ、神こそ真の主であることを思うときに、相手に対する敬愛の念が生まれるのです。