2005年5月18日(水)「愛犬のために祈ってもいいですか?」 秋田県 H・Fさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は秋田県にお住まいのH・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「祈りについて。祈りというか、神様へのお願い事というか・・・・。家族同様に生活しているゴールデンレトリーバーが、子宮蓄膿症という病気にかかりました。辛く苦しい生活が家族皆で続いています。犬には魂がないといいますが、魂のない生き物のことを神に祈ることはいけないことですか? いけないことなのかもしれないと思いながら、神さまに祈っている僕はやっぱり罪人ですか。」

 H・Fさん、メールありがとうございました。愛犬のゴールデンレトリーバーが重い病気とのこと、気が気ではないですね。実はわたしも二年ほど前からラブラドールレトリーバーを飼い始めました。飼い始めて気がついたことは、ご近所でも実にたくさんの人たちが犬を飼っているということです。しかも、まるで家族の一員のように大事に育てている方がほとんどだということです。人間以上に動物を溺愛することは問題かもしれませんが、しかし、ペットがわたしたちの生活の中に深く溶け込んでいるのは紛れもない事実です。最近では「ペット」とか「愛玩動物」というような言い方をしないで「コンパニオンアニマル」と呼ぶ人たちも増えています。まさに、可愛がるだけの動物ではなくて、同伴し、伴侶となるような地位を動物たちも得たと言うことでしょうか。

 自分のコンパニオンとして動物と共に暮らしてきた人たちにとっては、犬であれネコであれ、その動物が重い病気にかかったり死んでしまうことはとてもつらいことだろと思います。高が動物ごときのことと言って片付けてしまうわけには行かない問題です。

 ところでわたしが牧師になるための勉強を神学校でしていたときのことですが、こんな印象的なエピソードがありました。それは説教演習という時間のことでしたが、ある神学生が黙示録からの説教をしました。その中で、全くの余談として、半分ジョークを交えながら、「天国には犬やネコのペットがいるとは思えませんが」と言うようなことを語ったのです。説教演習が終わり、批評の時間になったとき、一人の教授が立ち上がり、その部分のことでこうコメントしたのです。

 「天国にペットがいるかいないかは、どうでもいい問題かもしれないが、君はペットを家族の一員のように思って飼っている人のことを考えたことがあるか。」

 その当時のわたしには、説教の本題ではないことに、どうしてそこまでこだわるのか理解できませんでしたが、今思えばその先生は時代の先端を行っていたのかもしれません。人間であれペットであれ、それを失ったことで心を痛めている人の慰めを教会がどう語るのか、心のケアの必要性を牧師が認識しておく必要があるということでしょうか。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、自分の愛犬のために祈ると言うこと、それは聖書的に考えて許されることなのかどうか、果たして、意味のあることなのかどうか、そのことについてご一緒に考えてみたいと思います。

 H・Fさんはきっと病気の愛犬のために祈りたい思いでいっぱいなのでしょうね。その気持ちは、メールの文面からよく伝わって来ました。しかし、また、H・Fさんは魂のない動物のために祈ることに、はたして意味があるのかどうかという一抹の疑問ももっていらっしゃるようです。

 確かにキリスト教の教理では、神は人間を理性のある不死の魂を持ったものとして造られたと教えています。そして、そのことは人間と他の動物との大きな違いだとも言われています。今、この問題を詳しくは取り上げようとは思いませんが、しかし、そのような霊魂を他の動物が持たないとしても、動物に命があると言うことは聖書も認めていることです。創世記の9章で、ノアの洪水の後、神がはじめて人間に動物の肉を食べることをお許しになった時、この動物たちを神は「動いて命あるもの」と呼んでいます。さらに、イエス・キリストによれば、その動物たちの命を支配しておられるのは、天の父なる神なのです。

 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)

 イエス・キリストはそうおっしゃっています。そうであるとすれば、御心によって命を与え、命を取り去られる神の前に、その御心を尋ね求めることは、いたって正しいことなのではないでしょうか。

 もちろん、祈りによって神の御心を変えようとするのが祈りの目的ではありません。そもそも、イエス・キリストは、祈りとはわたしたちの必要をご存知である方の前に、その御心を尋ねて献げるものであるとおっしゃっています(マタイ6:7-8)。祈りの課題が何であれ、祈りを通して神の御心を学び、わたしたちに対して配慮してくださっている父としての神の愛に触れることができるのならば、どんなことのためにも熱心に祈るべきではないでしょうか。

 確かにそうは言っても、はやり動物のことで祈るのはどうかと思うという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ノアの箱舟のことを考えてみるとどうでしょうか。なぜ、神はノアとその家族と共に、動物までも箱舟に乗ることを許されたのでしょうか。神は人間と共に動物までもお助けになったのです。そのことの意味を過少評価してはいけないと思います

 また、ニネベの町に遣わされた預言者ヨナに対して、神がおっしゃった言葉は何だったでしょうか。神はこうおっしゃいました。

 「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 神がニネベの町を滅ぼされなかったのは、ただ人間のためだけではありませんでした。そこにいる無数の家畜にも目を留めておられたのです。ですから、動物のことを気にとめることは決して聖書の教えに反することではないのです。

 ただ、繰り返しになりますが、祈りと言うのは、それを通して神の御心とわたしたちの必要を知ることですから、どうぞ祈りの長さにもまして、神の御心を尋ね求める心を大切にしてください。