2005年5月25日(水)「『天の父なる神』の『天』とは?」 滋賀県 S・Uさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は滋賀県にお住まいのS・Uさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「栄光在主 山下先生こんにちは。滋賀県のS・Uです。 質問をお願いします。天の父なる神様と祈るときの天という意味をできる限り具体的に教えてください。お願いします。」

 S・Uさん、メールありがとうございました。いつも番組を聴いていて下さってありがとうございます。

 とても簡潔なご質問ですが、答えるのにはとても奥が深いご質問のように思います。

 まずは、「天の父なる神」というお祈りの表現ですが、一番よく知られているのはマタイによる福音書6章に記された「主の祈り」の冒頭部分です。そこでは「天におられるわたしたちの父よ」と神を呼びかけています。「天の父」という表現が一番多く出てくるのもマタイによる福音書です。他の福音書にも出てこないわけではありませんが、数えるくらいしか出てきません。ちょっと意外に思われるかもしれませんが、それ以外の個所には、旧約聖書にも新約聖書にも「天の父」という表現は出てきません。

 それから、「父である神」と言う表現、あるいは神を父と呼ぶ表現は旧約聖書ではわずかな個所に、新約聖書にはたくさんの個所で登場しています。しかし、これも意外に思われるかもしれませんが、「天の父」という表現と「父である神」という表現を組み合わせた「天の父なる神」と言う表現は聖書の中に一度も出てきません。

 もう一つ、「天の神」と言う表現は、旧約新約共に数えるくらいの個所にしか登場しません。

 以上の統計的な数字をまとめて考えてみると、先ず大切なことは、神を父として意識するようになったのは、圧倒的に新約聖書の方が多いと言うことです、特にそのような意識に対してイエス・キリストが果たした役割は甚大であったと言うことができます。神はイエス・キリストの父なる神であると同時に、イエスを信じて神の子とされたされた信者たちにとっても神は父として意識されていると言うことです。

 では「天の」ということに関してですが、「天の父」と言う表現も「天の神」という表現も、どちらも数えるくらいしか聖書には出てきません。特に「天の父」と言う表現を好んで使っているのはマタイによる福音書です。「主の祈り」はマタイによる福音書とルカによる福音書の両方に出てきますが、冒頭部分で「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるのはマタイによる福音書に記された主の祈りの冒頭で、ルカ福音書では簡単に「父よ」と呼びかけているだけです。

 以上のことから考えると、「天の」ということをわざわざ言わなくても暗黙の理解があったのではないかということが一つにはいえるのではないかと思います。つまり、あえて「天の」と言う言葉を必要としなかったということです。そのことは「天の」と言う言葉に特別な重要性をおいていたとは思えないとも考えられるわけです。

 しかし、そう考えてしまうと、S・Uさんのせっかくのご質問に水をさしてしまうことになってしまいそうです。

 そこで、こんな風にも考える事ができると思います。

 先ほども「天の父」という表現を好んで使うのはマタイによる福音書であると言うことを統計的な数字から言いました。もちろん、「天の父」という表現は他の福音書にも登場するわけですから、マタイによる福音書の記者が作り出した言葉ではありません。むしろ、イエス・キリストの発言にそのルーツがあるのでしょう。旧約聖書には「天の父」というそのものの表現がないのに対して、新約聖書にその表現が登場するのは、そういった事情からでしょう。

 けれども、「天の父」という表現のルーツがイエス・キリストにあるとしても、その表現を一番多く登場させているのはマタイによる福音書であると言うのも事実です。マタイによる福音書には神を「天の」父と呼ぶことに対して、特別な関心があったのかもしれません。

 さて、随分と前置きが長くなってしまいましたが、祈りなどの中で「天の父」というときの「天の」という言葉のもつ意味に関してのご質問を取り上げています。

 一般的に「天」と言う言葉は「天地」といわれるように「地」という言葉と対になっています。地上の父親、いわゆるこの世の父親に対して、神こそがまことの父であるとして理解し、神を「父」と呼ぶ場合には、地上の父親と区別して「天の父」と呼びます。

 マタイによる福音書23章9節で、イエス・キリストが「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」とおっしゃる時の「天の父」という表現は、まさに「地上」と「天上」とのコントラストがはっきりした表現です。

 ところで、天の神を父として理解する、その理解の仕方には色々な意味合いが含まれています。

 まず、天地万物の造り主として、神は造られたものすべての父であるとみることができます。イエス・キリストは「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6:26)とおっしゃいましたが、その場合の天の父は、鳥をもお造りになり、その鳥を養ってくださると言う意味での「天の父」なのです。

 そして、特に人間との関係で神はあらゆる人間の「天の父」であると言われます。イエス・キリストはこうおっしゃいました。「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)。

 しかし、さらに特別な意味で、神はイエス・キリストによって救われた者の「天の父」でいらっしゃいます。クリスチャンが神を父と呼びかけるのは、イエス・キリストと結ばれて神の子とされているからです。そういう意味で、神はクリスチャンにとって特別な意味での天の父なのです。

 ところで「天の」と言う言葉は、「地上の」という言葉と対になった言葉と考える事ができますが、神を天の父と呼びかけるのは、ただ単に地上の父親と区別するためだけではありません。

 例えば「天の神」という聖書の表現は、ただ単に地上にもいる神とは対照的な神をさしているわけではありません。その場合には「地上の神」に対して「天上の神」といっているのではなく、神の絶対的な支配を表現しているのです。旧約聖書詩編の中で神は「天の上に高くいらっしゃるお方」と言われていますが、この場合には神の支配権があらゆるものに及んでいることを表現しています。そういう意味で、祈りの中で「天の父なる神」と呼びかけるときの「天」という言葉の中には、神の絶対的な支配にたいして信頼を寄せる思いもそこには含まれているのです。