2005年9月7日(水)「説教が難しすぎるのですが…」 Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望のAさんのご質問です。お便りをご紹介します。Eメールでいただきました。

 「こんなことを言うのは失礼かと思うのですが、教会の説教は難しすぎてよく分かりません。聖書の教えと言いうのはそんなに難しく話さないといけないものなのでしょうか。もっと分かりやすくお話すれば、教会にもももっと人が来ると思います。少なくとも今の教会に誰かを誘ってこようと言う気持ちになれません。チンプンカンプンな話を聞かされるだけで、きっと二度と教会に来てもらえなくなるだけだと思うからです。そんな風に考えてしまうのはいけないことでしょうか。わたしはもっといろいろな人に教会にきて欲しいと思っています。まとまりのないメールで申し訳ありませんが、ご意見をお聞かせください。」

 Aさん、メールありがとうございました。私自身、聖書のお話をする立場の人間ですから、Aさんのメールにズキンと来るものを感じました。どんな人でもそうだと思いますが、せっかくお話をするのですから、聞き手に伝わるようにお話をしなければ、せっかくのチャンスが無駄になってしまいます。分かりやすく話す、上手に話す、これはいつも心がけておかなければならないことだと思います。

 ところで、Aさんのメールを読んでいて、問題はそんなに単純ではないように思いました。Aさんの通っている教会のことや、その教会の牧師先生のことをまったく知りませんので、どこがどうなのか、どうすればよいのか、具体的なことは申し上げることはできません。一般的なこととして思いつく限りのことをお話したいと思います。

 話が難しいと一口で言っても、その原因はいろいろあると思います。少なくとも三つほど、難しい原因を大きく分けることができると思います。一つは話し手の側の問題、もう一つは聞き手の側の問題、それから三つ目は扱われている話題そのものの問題です。

 先ず、話をする人の問題についてですが、これも詳しく分析してみると、四つばかり原因が考えられます。その一つが話す技術の問題です。発音が不明瞭であったり、声の出し方に問題があれば、そもそも音が正しく伝わらないので、聞いていて結局訳の分からない話になってしまいます。これは訓練と心がけである程度直すことができることだと思います。

 話し手の持っている二つ目の原因は、話の組み立て方の問題です。話が行ったり来たりしたり、論理が飛躍したり、本人にしか通用しない独り善がりな説明であったり、色々なことが考えられます。何をどういう順番で話すのかという話の組み立てがしっかりしていないと、聞いている方はさっぱり分からなくなってしまいます。

 三つ目の問題は、話し言葉と書き言葉を区別していない場合です。目で追って読む書き言葉と耳から聞く話し言葉では、同じことを伝える場合にも、文章の組み立て方や、使う単語が違います。もし、漢字の熟語をたくさん使えば、耳で聞いて理解するのは難しくなってしまいます。それから、一つの文章が長すぎて、主語と述語が離れすぎていたりすると、理解できなくなってしまいます。話し言葉ではできるだけ文章を短くするように心がけるべきです。

 四つ目は、話す話題が多すぎるか、あるいは何を話したいか話し手自身が自分の話を把握していない場合に、難しい話に聞こえてきます。とくに聖書から語る説教の場合、聖書が何を言おうとしているのか、いろいろたくさんの書物を調べているうちに、あれもこれも調べたことを盛りだくさんに取り入れて、結局自分の話になっていないということがあります。

 さて、他にも話が難しく聞こえる要因はあるかも知れません。しかし、Aさんがおっしゃっている「説教の難しさ」というのは、おそらくこの四つのうちのどれかと言うよりは、その四つが絡み合って、余計に難しい話になっているのではないでしょうか。

 ただ、この場合、原因の大部分は話し手個人の問題なのですが、しかし、準備の時間を充分に取ることができるような組織全体のシステムの問題も検討しなければならない場合もあるはずです。例えば、一人の牧師が処理できる能力以上の働きを牧師にさせてはいないか、その点も見過ごすことはできません。牧師個人も変わる必要がありますが、教会全体のシステムも変わらなければ、説教の質も変わってこない場合もあるのです。

 さて、説教が難しいという場合、話し手の側の問題もありますが、聞き手の側の問題も無視することはできません。どんなに素晴らしい話し手であっても、聞き手の側が心を閉ざしてしまったのでは、伝わるものも伝わらないのは当然です。この場合、心を閉ざす理由には二つほど代表的なものがあります。

 一つはそもそも話題に関心がない場合です。もちろん、聞き手が関心を持つような話題を準備するのは話し手の責任かもしれません。しかし、礼拝での説教は聞き手の関心や興味によって導かれてはいけないというのも真実です。罪人であるわたしたちはいつも自分たちに都合のいい話を聞きたがるものです。ときとして説教では聞きたくない話題や関心のない話題も取り上げられることがあります。そのとき、聞き手の側が、その説教によって信仰を養われようという思いがなければ、ただのつまらないお話に終わってしまうのは当然のことです。

 聞き手が心を閉ざすもう一つのケースは、話し手との信頼関係がそもそも破綻している場合です。話し手がどんなに正しいことを分かりやすく語ったとしても、聞き手と話し手の間で信頼関係や人間的なつながりが壊れていれば、その話は聞かれるはずもありません。その場合は、話す技術の問題よりも、信頼関係の回復の方が大切です。「どうせあの先生の話はつまらない」と最初から先入観をもってしまえば、話が心に入っていくわけはありません。  最後に、話が難しいと感じられる三番目の点ですが、そもそも扱われている話題そのものが難しいという場合もあります。これは聞き手の側の関心と重なる部分ですが、聖書は必ずしもすべての人に面白い書物だとは言えません。しかし、一部の人のためだけに記された書物ではないはずです。すべての人が聖書に記されたよき知らせに触れることができるように、あらゆる努力を惜しんではならないと思います。

 私自身もAさんと同じように、たくさんの人にキリスト教のメッセージを聞いていただきたいと思っています。そのためには何を変えていくべきなのか、また逆に絶対に妥協してはいけないことは何なのか、そのことをこれからも考えていきたいと思っています。