2005年9月14日(水)「聖書が言う『死』とは?@」 神奈川県 K・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのK・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組をいつも楽しみに聞いています。

 さて、きょうは『死』についての疑問にお答えいただきたく、お便りをしました。この『死』についての問題は普段何気なく聖書を読んでいて納得しているようでも、いざ、頭の中を整理しようとすると良く分からないことがたくさん出てきます。

 例えば、創世記で『善悪を知る木の実を食べると必ず死ぬ』といわれていますが、木の実を食べたアダムもエバもそのときからでも随分長生きをしました。かえって、その後のほかの人々よりも長生きをしたくらいです。創世記が言っている『必ず死ぬ』というのはどういうことなのでしょうか。

 また、新約聖書では死が入って来たのはアダムの罪の結果であるといわれています。そして、このことは具体的には善悪を知る木の実を食べたことと関係しているようですが、聖書の中で死ぬのは人間だけではありません。動物も死にます。その場合、動物の死も人間の罪の結果なのでしょうか。

 さらにまた、キリスト教では『死とは肉体と魂の分離である』といわれますが、そうすると動物が死ぬのも、魂と肉体の分離なのでしょうか。それとも、人間だけが魂と肉体が分離する死を味わうのでしょうか。魂と肉体が分離する死は、罪に対する罰なのでしょうか。それとも、自然なことなのでしょうか。クリスチャンの死はやはり罰として与えられるものなのでしょうか。イエス・キリストは、ご自分を信じる者は決して死なないとおっしゃいましたが、そのすぐ後で「たとえ死んでも」とおっしゃっています。キリストを信じるクリスチャンは結局死ぬのでしょうか。死なないのでしょうか。

 こんな風に考えてくると、さっぱり分からなくなってきます。どうぞ、よろしくお願いします。」

 K・Mさん、メールありがとうございました。今まで溜めてきた疑問がいっきに噴出してきたような、とても難しい質問ばかりです。すべての質問に的確に答えることができるか、私自身も自信がありません。とにかく「死」について聖書が何と言っているのか、あるいは、聖書は何と言っていないのか、そのことについて見ていきたいと思います。しかし、どの疑問も相互に関連しているとはいえ、あまりにも広い範囲にわたっていますから、一回では取り上げられそうもありません。それで、三回にわたって取り上げることにしたいと思います

 まず、「死」という言葉が、人類にとって最初に出てくるのは創世記の2章17節です。K・Mさんがおっしゃる通り、神はアダムに対して「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」とおっしゃいました。

 この場合、神はどういう意味で「死」と言う言葉を使われたのでしょうか。また、それを聞いたアダムはまだ「死」というものを全く体験していなかったのですから、神の言葉をどう理解したのでしょうか。特にアダムがその言葉をどう理解したのかを知ることはとても難しい問題です。

 いずれにしても、創世記の記事を読み進めていくと、アダムもエバも禁じられた木の実を食べてしまいます。では、その結果何が起こったのでしょうか。「決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とおっしゃった神の言葉から予想されるようなことは、何も起こりませんでした。何か毒の入った食べ物を食べた時のように、アダムもイブも、のた打ち回って死んでいくのかというと、そんなことは起らなかったのです。あるいは、その木の実がじわじわと体を蝕んで、とうとう死んでしまったというのでしょうか。結果から言えば、アダムやエバが死を迎えるまでには、数百年もかかったのですから、善悪を知る木の実を食べてから、必ず死ぬまでには相当な期間が掛かったことは確かです。しかし、神が「食べたら必ず死ぬ」とおっしゃっているのは、そういうことでもなさそうです。

 とにかく、善悪を知る木の実を食べたことについて、創世記に書かれていることは、こういうことです。

 まず、食べた直後は「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知った」ということです。と同時に、神の前から姿を隠さざるを得ない自分を悟ったということです。

 それから、神はアダムに対して「塵にすぎないお前は塵に返る」とおっしゃいました。「塵に返る」というのは「死ぬ」ということを別の言葉で表現したと考えてよいでしょう。もっとも、「塵に返る」というのは、アダムが善悪を知る木の実を食べた結果、罰として「土に返る」と言う意味なのか、それとも、神が与えた罰は「塵に返る」ことではなくて、「土に返るときまで額に汗を流してパンを得る」…そういう人生の空しさを言っているのか、どちらにも取れるような気がします。

 さらに、神はアダムとエバをエデンの園から追放し、命の木から彼らを遠ざけてしまいました。

 創世記に記されていることは、大雑把に以上の通りなのです。この起った結果から、神がおっしゃった「必ず死ぬ」という言葉の意味を考える他はないのです。

 まず、一番にいえることは、ここではいわゆる肉体の死についてというよりも、もっと本質的な、もっと霊的な死について語っているということです。肉体の死について語っているように思われるのは、先ほども言った通り「塵に返る」という部分だけです。この部分については、あとで取り上げることにします。その部分を除けば、「必ず死ぬ」といわれて起ったことは、結局のところ、一言で言えば、人間自らが命の源である神を避けるようになったことと、それから命の源である神からも遠ざけられてしまう存在になったということです。これを、いわゆる「肉体の死」ということと区別して「霊的な死」と呼ぶことができると思います。聖書がいう「死」の第一義的な意味はここにあるということです。つまり、命の源である神との交わりを失ってしまったということなのです。

 では、「肉体の死」はこのときの出来事とどういう関係にあるのでしょうか。先ほども少し触れましたが、創世記3章19節にはこう書いてあります。

 「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないお前は塵に返る」

 この場合、人間が土に返るのは自然の摂理で、ただ、死ぬまで苦労して働かざるを得ないことが、罰として与えられたのだ、と考えることもできるかもしれません。つまり、人間の肉体の死は他の動物の死と同じように、アダムの罪とは関係ないという考えです。霊的な死と生涯にわたる労働の労苦だけが罰として与えられたと考えるのです。

 しかし、肉体についてだけいえば人間も動物も同じかも知れません。けれども、神が人間を土から作る時には、その鼻に「命の息」を吹き込んだことで、初めて生きた者となったのです(創世記2:7)。これは他の動物については言われていない人間だけが持っている特別な徴です。神が人間に対して「塵に返る」とおっしゃる時には、命の息が取り去られる事がおこるのです。そうしてこそ、アダムが生きた者となったのと逆のプロセスで死んだ者となるのです。ですから、創世記で神が「食べたら必ず死ぬ」とおっしゃったことの中には、この肉体の死のプロセスも含まれていると考えられます。

 このことについては来週もう一度取り上げたいと思います。来週は新約聖書の光に照らして人間の「死」について見てみたいと思います。