2005年10月5日(水)「健康の管理について、聖書の教えは?」 茨城県 Y・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのY・Tさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「こんにちは、Y・Tです。早速ですが、最近、気になっていることがあり、メールしました。

 体に異常が発生しても、検査せずに放置し、手遅れになる方も少なくないと思います。健康への過信、悪い結果への不安、検査内容への抵抗感など、理由は様々だと思いますが、早期発見、治療で助かるところ、意識的に検査を遅らせたことで死につながることについて、先生はどのようにお考えでしょうか。また、副作用として発ガン等のリスクが増加する薬を服用している人も、「自らの意志で、死期を早めた」として、罪になるのでしょうか。

 聖霊の宮であるべき肉体を清く保つためにも、きちんとした治療を受けることは大切だと思います。そうと解っていても、結局、後悔する結果につながってしまう。人間の弱さの現れかもしれませんが、ご回答をよろしくお願いします。」

 Y・Tさん、メールありがとうございました。メールをお読みして、先ず最初に思ったことは、ご質問の内容がY・Tさんご自身に関わることではないかということでした。もしそうだとすれば、ご自身の健康のために、一日も早く検査を受けて欲しいと思いました。これは、あえて聖書からその理屈を解き明かすまでもなく、この世の人の誰に尋ねても同じ答えだろうと思います。しかし、あえて聖書からその理屈を言うとすれば、それはわたしたちの体も魂も、神から与えられた預かりものだからです。神から管理を委ねられたものは何であれ、それを維持し、増進することは人間の務めです。聖書は人間を管理者として描いていますから、管理者にふさわしく生きる必要があるのです。そういう意味で、自分自身の肉体の健康を管理することは当然求められていることなのです。

 さて、そうは言いましたが、Y・Tさんご自身が書いていらっしゃるように、人は様々な理由をつけては、自分の健康のチェックを怠りがちです。若くて普段から病気がちでもなく、自覚症状も何もなければ、日ごろの健康診断を受ける必要がないように過信してしまうのはありがちなことだと思います。確かに聖書時代のことであれば、そこまで健康な人ならば、あえて健康診断など受けはしなかったことでしょう。そもそも健康診断などという考えもなかったはずです。しかし、隠れた健康度をチェックできる今となっては、そうした隠れた健康度も含めて管理することが求められているのではないかと思います。

 もちろん、人が健康管理を怠る理由は、健康への自信ばかりからではありません。今抱えている仕事が遅れたり中断したりすれば迷惑が掛かってしまうという心配から、分かっていても、あえて健康のチェックをしない人もいます。もちろん、それが本当であるとすれば、それは個人の問題ではなくシステムの問題も絡んでくるかもしれません。一人の人間に仕事が集中していて、他の誰もそれを分担できないような職場であれば、その職場そのもののあり方が問われるかもしれません。

 しかし、その人が人間国宝のように特殊な技能の持ち主で、その才能を活かして社会に貢献することを生きがいとしている場合、そう簡単には決断できないケースも出てくるかもしれません。たとえば、手術によって命を延ばすことはできても、それによってもはや特殊技能を使うことができなくなってしまう場合どうでしょう。残された命をフルに使ってその技能を生かす道を選択するか、それとも、その特殊な技能を諦めて命をすこしでも長くする手術を受けるべきか、悩むところでしょう。

 あるいは、病気がわかったとしても、治療に必要なお金がないことが分かっているので、あえて健康診断を受けないという人もいるかもしれません。もちろん、日ごろから浪費ばかりをしていて、自分の健康に備えた蓄えをしていないというのは、本人の問題です。しかし、その蓄えをすることすらできないような状況であるとすれば、これも、その人個人の問題と言うよりは、そういう社会のシステムを考えなおさなければならない問題だと思います。

 結論から言えば、神から与えられた体を管理している人間は、その健康の管理もまた委ねられているものと思うべきなのです。自分の健康管理を差し置いてでもしなければならないことがあるのだとすれば、それはよほどの理由がある場合に限られることだと思います。

 また、副作用として発ガン等のリスクが増加する薬を服用している人の場合ですが、その結果として「自らの意志で、死期を早めた」と言える場合と言うのは、具体的にどういう場合のことでしょうか。もし、薬の投与によって、その病気を放置しているよりも死期を早めてしまうような薬があるとすれば、そもそも薬として承認されないのではないかと思います。ただ単に、リスクの問題であるとすれば、薬を飲みつづけた結果として、死期が早まったとしても、死期を早めた責任を本人に問うことは難しいと思います。そもそも、リスクの問題ですから、本当に病気を放置していた場合よりも確実に死期が早まったかどうかは、誰にも証明できないのではないでしょうか。リスクのない確実なこと以外のことはなすべきではないとすれば、当然、何もできなくなってしまいます。

 さて、最後に一つだけ、クリスチャンにとって難しい問題があると思います。それは犠牲的な生き方と健康管理の問題です。クリスチャンにとって隣人を愛することは、もっとも大切な戒めの一つです。隣人を愛するということは、時として自分の犠牲を払う必要がある場合もあります。その犠牲が、本人の健康をどれくらい損ねるのかはとても計り知ることはできませんが、時には健康を害してでも誰かのために何かをするということはあるはずです。それが一時的な、一回限りの無理である場合は問題ないでしょう。しかし、人によっては恒常的にそういう状態の中で隣人愛に生きている人もいます。その人に対して、もっと自分の健康管理を優先させなさいと命じることはそう簡単にはできません。もし、その働きがほんとうに必要な働きであるならば、その重荷を共に分かち合うことによってしか、その人の健康管理に協力することはできないと思います。

 けれども、自分の能力を超えた犠牲的な働きが、必ずしも正しい隣人愛であるとは限りません。その見極めも大切なことだと思います。クリスチャンとして時々心配に思うことは、犠牲的献身という名のもとに、健康管理がおろそかになってはいないか、ということです。

 これは犠牲的な精神を美徳と考えるわたしたち日本人にも言えることかもしれません。家族のため、会社のため、自分の身を粉にして働く犠牲的な精神はとても素晴らしいものだと思います。しかし、それと同じくらい、自分の健康管理に気を配ることも大切です。犠牲的な精神を美徳と考えるのと同じくらい、個人の健康を大切にすることを美徳と思う社会になるようにと願っています。