2005年12月7日(水)「剣を買えとは?」 長崎県 K・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長崎県にお住まいのK・Mさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、初めまして。私は求道者として、キリスト教に興味を持って10ヶ月になる者です。

 さて、今回は一つ質問があって、メールしました。キリスト教の諸教派・諸教団は、世界平和についてアピールをするとき、いつも「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というイエス様の御言葉を引き合いに出しています。ところが、そのイエス様は最後の晩餐のとき、弟子たちに「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」(ルカ22:36)と、先の御言葉と一見して矛盾したことを弟子たちに言われています。

 イエス様は何を思われて、弟子たちに「剣を買いなさい」と言われ、また「剣を持つ者は皆、剣で滅びる」と言われたのでしょうか? 先生のお考えを聞かせて下さい。」

 K・Mさん、はじめまして。メールありがとうございました。この番組を聴いてくださって嬉しく思います。

 さて、きょうご質問いただいた聖書の個所は、確かに一見矛盾しているように思われる個所として有名な個所です。イエス・キリストが柔和な平和主義者であったのか、それとも過激なテロリストであったのか、興味をそそるような話題かもしれません。実はイエス・キリストの研究者たちの間では40年ほど前にそんな議論がなされたこともありました。『イエスは革命家であったか』(M・ヘンゲル)とか『イエスと熱心党』(S・G・F・ブランダン)などというタイトルの本が出回った時代もありました。

 一般に信じられているイエス・キリストのイメージは、柔和で平和を望まれるお方です。私もそうだと信じています。K・Mさんが挙げてくださった聖書の言葉、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉もそうですが、イエス・キリストが平和を愛されたことを示す言葉は枚挙に暇がありません。他にも、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)などは有名な言葉です。

 しかしまた、その一方で、イエス・キリストの過激な言葉として知られているいくつかの言葉があります。「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」という言葉もその一つです。他にもマタイによる福音書の10章34節にはこんな言葉があります。

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」

 さらにイエス・キリストの弟子にはシモンと言う名の熱心党員もいました(マルコ3:11)。熱心党員の人たちはローマ帝国にとっては反逆者でしたから、十字架刑に処せられた人たちも大勢いました。そんなわけで、イエスの教えは当時の過激なグループと何らかの接点があったのではないかとさえ考える学者も出てきたわけです。

 しかし、そうした熱心党との類似点よりも、相違点の方がはるかに多いということで、今では、イエスが革命家であったと考える人はほとんどいなくなりました。

 さて、ご質問の個所に戻りますが、表面上の言葉だけをみれば、イエス・キリストは服を売ってでも剣を買うように弟子たちに勧めているように見えます。しかし、イエス・キリストの平和と暴力に関する教えに照らして考えると、それは明らかに文字通りの意味には受け取ることができません。では、どういう意味にそれを受け取るべきなのでしょうか。

 まず、この言葉が登場する文脈を見てみる必要があります。これはルカによる福音書の最後の晩餐の場面で行なわれた、イエスと弟子たちとの会話の中に出てくる言葉です。

 直前のところで、イエス・キリストは弟子たちにこう問い掛けておられます。

 「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」(22:35)

 このキリストの質問は明らかに10章のところに出てくる、72人の弟子たちを派遣した時のことを振り返っての質問です。キリストが弟子たちを遣わされたあの時は、財布も袋も履物も必要ではなかったのです。なぜなら、弟子たちの必要を支えてくれる人たちが備えられていたからです。派遣される先々で弟子たちを迎え入れてくれる家があったからです。ですから、「何か不足したものがあったか」というこのイエスの質問に、弟子たちも「いいえ、何もありませんでした」と即答することができたのです。

 問題の言葉は、この弟子たちの答えのあとに続きます。

 「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」

 それは、今までとは明らかに違う状況が弟子たちを襲うからです。その理由をイエス・キリストは言葉を続けてこうおっしゃいます。

 「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」

 確かに、犯罪人の一人に数えられた人物の仲間に、今までどおりよくしてくれる人がいなくなる事態は当然襲ってくるでしょう。ですから、財布のあるものはそれを持っていき、袋のあるものも同様にしなさいというのは理解できると思います。

 では、剣は何のためなのでしょうか。弟子たちはたまたま持ち合わせていた二振りの剣をイエスの前に差し出しました。

 それに対してイエスは「十分だ」とお答えになります。

 ところが、ゲッセマネの園でイエスが実際に逮捕される場面で、その剣を使って抵抗を試みた弟子たちに、イエスは「やめなさい」と言って、剣を収めるように命じます。

 このイエスの行動からも理解できるとおり、イエスは実際に武力行使を行なわせるために剣を準備するように弟子たちに命じたとは考えられないのです。あの会話の文脈からいえることは、イエスが犯罪人のひとりとして数えられるような事態が起った時に、今までのようにはいかないと言うことを弟子たちに教えたかった、これがイエスの発言の趣旨ではないかと言うことです。

 二振りの剣をみて「それで十分だ」とおっしゃったイエスの言葉は、弟子たちの行動を肯定した言葉ではなく、むしろイエスの言葉の意味を履き違えた弟子たちに対して失望と諦めの気持ちを込めて、「もう十分だ」とおっしゃったのだと思います。