2005年12月21日(水)「試みにあわせるとは?」 ハンドルネーム・ミケさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ミケさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、大変お久しぶりです。最近ふと思ったのですが、どこの教会でもやっている「主の祈り」というのがありますね。このなかで、「われ等を試みにあわせず悪より救い出したまえ」という言葉ありますね。「試みにあわせる」ってどういう意味ですか? 試みにあわせるのは、神様がですか? また、この言葉と「悪より救い出したまえ」という言葉はどうつながるのですか? この言葉何度も唱えたような気がしますが、結局意味もわからず、ただ呪文のように唱えていたような気がし、なんとも空しい感じです。」

 ミケさん、お久しぶりです。メールありがとうございました。「主の祈り」はその名のとおり、主イエス・キリストが弟子たちに教えた大切な祈りの模範ですね。聖書の中ではマタイによる福音書の6章9節以下とルカによる福音書の11章2節以下にそれぞれ記されています。この二つはどちらもイエス・キリストが教えてくださった「主の祈り」ですが、ルカによる福音書の方が簡潔な短い言葉で記されています。普通キリスト教会の礼拝で用いられているものは、マタイによる福音書に記された主の祈りの言葉に結びの言葉を加えたものを唱えています。主の祈りの日本語の翻訳も何種類かありますが、今でも文語体の翻訳で祈られることが多いように思います。

 さて、ご質問の件ですが、主の祈りの最後に記された祈願は「我等を試みにあわせず、悪より救い出したまえ」というものです。ルカによる福音書では短い形で「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」とだけ記されています。それに対してマタイによる福音書では長い形で「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と書かれています。先ほども触れましたが、礼拝で唱えられている主の祈りはマタイ福音書に記されたものが用いられています。

 それで、最初の質問ですが、「試みにあわせる」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書では「試み」と言う言葉の代わりに「誘惑」と言う言葉が用いられています。「誘惑」と言う言葉で普通私たちが連想するのは、「罪への誘惑」です。そうすると二番目の質問とも関係してくるのですが、いったい誰が「罪への誘惑」に私たちを遭わせるのでしょうか、神様でしょうか、という疑問が出てきます。

 先ずここのところを理解するためにはヤコブの手紙がヒントになると思います。ヤコブの手紙1章12節と14節にはこう記されています。

 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」

 ここには「試練」という言葉と「誘惑」という言葉が出てきます。ここで使われている「試練」という言葉には積極的な意味があります。なぜならそれによって、その人が適格者と認められるようなテストだからです。それに対して「誘惑」という言葉は悪い意味で用いられています。先ほども言いましたが、この場合の誘惑は、明らかに「罪への誘惑」です。それでヤコブは「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらない」と書き記しています。

 ところで、ここに出てくる「試練」という言葉も「誘惑」という言葉も、翻訳聖書では訳し分けていますが、もともとは同じ言葉が使われているのです。日本語では文脈によって「試練」と訳したり「誘惑」と訳したりしています。この言葉が両方の意味を持った言葉であることを一つ理解しておかなければなりません。

 そこで、ミケさんがしてくださった二番目の質問に「試みにあわせるのは、神様がですか?」とありましたが、ヤコブが手紙の中で言っているように、神様は試練を積極的に用いられます。しかし、人を罪に誘惑されることはありません。人が罪の誘惑を受けるのは、ヤコブの手紙によれば「それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」。けれども、同じヤコブは1章2節以下でこうも言っています。

 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」

 試練と誘惑はある意味では紙一重です。神様から受ける試練を乗り越えるなら、それはこの上ない喜びです。それによって信仰が強められるからです。しかし、この試練のただ中で、私たちは「それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」弱さを持った者です。

 そういう意味で、信仰をテストするために与えられた試練が、わたしたちの弱さからただの誘惑へとなってしまわないように、私たちには祈る必要があるのです。

 最後の晩餐の後、ゲツセマネの園でイエス・キリストが祈られた時、イエスは弟子たちに向かっておっしゃいました。

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マルコ14:38)

 これはただ単に眠さと戦って祈りなさいという意味ではありません。最後の晩餐の席上で、弟子のペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と断言しました。しかし、ペトロはイエス・キリストが受けなければならない厳しい苦難を前に、キリストを見捨ててしまったのです。キリストと共に過ごした弟子たちでさえ祈らなくてもよいほど強くはないのですから、私たちはなおのこと、試練のときに誘惑に陥らないように祈る必要があるのです。

 さて、最後の質問に簡単に触れて終わりにしたいと思います。「我等を試みに遭わせず」ということと、その次の「悪より救い出したまえ」の関係ですが、「悪」というのは新共同訳聖書が翻訳しているように抽象的な「悪」ではなく、もう少し具体的な「悪い者」なのです。特にサタンは人の弱さに乗じて心をそそのかし、罪へといざなう悪い者の代表です。私たちを誘惑に遭わせないということは、サタンの悪い誘いから守っていただくことで具現化するのです。