2007年1月10日(水)どっちが幸せなのでしょう? 奈良県 S・Sさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は奈良県にお住まいのS・Sさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を聞いています。リスナーの方たちの質問や先生の答えを聞いていて、いろいろと考えさせられることがあります。
私はクリスチャンですが、恥かしいくらいにほんとうにわからないことがたくさんあります。いつもすっきりしない心がもやもやとしています。
私は器量もよくなく、小学校の頃から顔のことなどで皆からバカにされたり、苛められたりして来ました。今でも独身なので、そのことで回りからとやかく言われ、とても辛い気持ちです。
クリスチャンになった私はいろいろと考えるのですが、私のことをそうやってバカにしている人たちは、ずいぶん気が楽で羨ましく思います。言いたい放題をいい、良心に呵責を感じることもなく、気楽なものです。
もちろん、私はクリスチャンであることをやめてその人たちの仲間になる気持ちなどありません。しかし、クリスチャンになったからと言って、決して楽になるわけではないということです。仕返しするわけにもいかず、じっと耐えるより他はありません。
これが本当に幸せなのでしょうか。それでも、その人たちより幸せだといえるのでしょうか。今の私を見てクリスチャンっていいなと羨ましがる人はいないでしょうね。
いったいどっちが本当に幸せなのか、分からなくなってきました。先生、なにかアドバイスをお願いします。」

S・Sさん、お便りありがとうございました。S・Sさんの苦しい体験とお気持ち、お便りを読ませていただきひしひしと感じました。だれでも、クリスチャンになるときには悩みや苦しみから解放されて、幸せになることを願っていることでしょう。もちろん、期待通りにそれを手に入れる人もいます。しかし、S・Sさんのように中々心の苦しみから解放されなかったり、幸せであることを実感できないという人もいます。
この現実をどう理解し、説明するのかは、そう簡単ではないように思います。それは単純にS・Sの信仰が足りないからだとか、S・Sさんがまだ本当にクリスチャンではないからだといった短絡的な評価で説明がつくものではありません。
このことを考える上で、二つのことをまず知っておく必要があるように思います。まず一つのことは、聖書はクリスチャンとなった者に、苦しみからの解放や究極的な祝福を確かに約束してくださっていると言うことです。個人生活の中で、そのことを実感できるかどうかということから出発して、その神の約束を疑わしいものと考えるべきではないのです。聖書の約束は信じて受け取るべきものであって、状況から判断して疑うべきものではないからです。
もう一つの大切なことは、すべてが完成するときまでなお時間を要すると言うことです。神はイエス・キリストを通して救いに必要なすべてのことを成し遂げてくださいました。そういう意味では、罪はもはやクリスチャンに対して力を持つものではありません。しかし、丁度焚き火の燃えかすのように、触れば熱いし、やけどもするのです。けれども燃えかすですから、再び手がつけられなくなるほど威力を盛り返すことはないのです。やがては完全に消え去ってしまうのです。しかし、今はその途上ですから、その燃えかすの影響が完全にないわけではないのです。
クリスチャンであるための悩みとはそういうところから来るものなのです。一方で揺るぎがたい救いの祝福の約束があり、他方で罪の現実の生活があるのです。

さて、この世がまだ燃えかすの罪の影響のものとにあると言うことは、そこに生きる人々とクリスチャンの生活原理との間に葛藤を生み出すことは避けることができません。もちろん、クリスチャン自身の内側にも葛藤があります。しかし、それ以上にこの世との戦いは厳しいものがあります。罪の生活原理と神の生活原理とは決して相容れないからです。一方に生きれば他方からは排斥されてしまうのです。イエス・キリストご自身もおっしゃっているように「誰も二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)のです。
しかし、また同時にクリスチャンは自分の意のままにこの世を放棄してこの世から立ち去ることも許されてはいないのです。燃えかすの罪が残るこの世に私たちは置かれ、そこで過ごすように生かされているのです。そうではないとするならば、クリスチャンはこの世から出て行くより他はないのです(1コリント5:9-10)。この世にありながら、なお、この世の罪の原理には生きないという倫理があるのです。そうであればこそ、いっそう葛藤も大きいのです。
そういう生き方は苦しくて窮屈だと思われるかも知れません。それならば、この世の生き方にどっぷりと浸かっていた方が気も楽で幸せに感じるかもしれません。しかし、S・Sさんご自身が気がついていらっしゃるように、この世の原理にはほんとうの幸福はないのです。あるとすれば、この世との一体感から来る安心感だけです。この一体感から来る安心感を幸福と呼ぶのであれば、確かにこの世の原理に生きることは幸福感をもたらすかもしれません。しかし、罪の原理の働くところにまことの幸福がないからこそ、救いの必要性を人は痛感しているのではないでしょうか。
S・Sさんは「いったいどっちが本当に幸せなのか、分からなくなってきました」とおっしゃっています。しかし、S・Sさんはほんとうに分からなくなっているのではないと思います。お便りの中でおっしゃっているように、S・Sさんには「クリスチャンであることをやめてその人たちの仲間になる気持ちなど」少しもないはずです。S・Sさんにとってはどっちが幸せであるかは分かりきっていることなのです。ただ、心が揺らぐとすれば、そういう自分をこの世の人が幸せだとは認めてくれないと言うことではないでしょうか。
確かに、自分の生活が幸せそうであるのを周りの人が見て、クリスチャンに是非なってみたいと思ってもらえるなら、これほど良いことはありません。しかし、クリスチャンにはこの世との葛藤があることも事実なのですから、それを恥じたり隠したりすべきではないのです。たとえどんなにこの世との葛藤があったとしても、それでも、クリスチャンはそれを上回る幸福や希望に生かされているのではないでしょうか。
この世の人間が自分をどう見るかではなく、自分が神の約束に期待し、どう生きるか、それこそが大きな問題なのです。クリスチャンの幸福について説明を求める人には説明をすべきでしょう。しかし、むきになって説得しようとする必要はないのです。クリスチャンの生き方に共感を覚える人は必ずいるはずです。もちろんそうでではない人も必ずいます。大切なことは、結局は神の約束に揺るぎない信頼を寄せて歩み続けることです。