2007年1月17日(水)出エジプトはいつですか? 匿名希望さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の男性の方からのご質問です。携帯からのeメールでお便りをいただきました。ご紹介します。

「先日テレビで『出エジプト記の真実』という番組を見たのですが、わたしたちは出エジプトは紀元前1513年であると年代計算しています山下先生は何年だと思いますか?
聖書の年代を算定するため起点となる一つの要の年はペルシャ王キュロスがバビロンを倒した紀元前539年です。ペルシャ王キュロスがバビロンを倒した前539年から起算すると出エジプトは前1513年と算定できます。年代の算定方法としてユダの70年の荒廃、イスラエルの王たちの在位期間を計算に入れるそうです。」

携帯からのメールありがとうございました。実際には4回ぐらいに分けて短いメールをいただいたのですが、ご紹介する時には一本にまとめて少し言葉をなおさせていただきました。そのことをご了承ください。
さて、わたし自身は残念ながらそのテレビ番組を見ていません。そのテレビ番組の中で、何か出エジプトの年代について触れられていたのでしょうか。何をどんなふうに取上げていたのか、興味を覚えます。ただ、今回のご質問はそのテレビ番組の内容に直接触れなくてもよさそうですので、いただいたメールのご質問にだけお答えすることにします。

先ずはじめに、まだ聖書についてあまり詳しく知らないリスナーの方のために、少しだけ何が問題となっているのかと言うことについて、概略をお話したいと思います。
「出エジプト」と呼ばれている出来事ですが、それは旧約聖書の「出エジプト記」に記されています。
ヤコブの息子ヨセフの時代に、ヤコブの一族はパレスチナで起こった飢饉を逃れて、エジプトに定住するようになりました。丁度その頃、神のくすしい導きで一足先にエジプトで高い地位についていたヨセフを頼ってのことでした。
時代が移り変わり、エジプトの王も代替わりして、ヨセフのことやイスラエル民族がエジプトに移り住んだいきさつを知らない王が起ったのです。新しい王はイスラエルを苦しめ奴隷のように扱ったのですが、神はその僕モーセを遣わして、イスラエルの民をその苦しみから救い出したのです。モーセの指導のもとに、エジプトを脱出した事件、これが出エジプトの出来事です。そして、そのことが起ったのは一体いつなのか、それがきょうのご質問です。
では、なぜ、この出エジプトの事件の年代が問題になるかというと、残念ながら、出エジプト記それ自体には、年代の確かな手がかりとなるような事柄が何も記されていないからです。一般に知られている古代エジプトの歴史と聖書をつき合わせて考えようにも、出エジプト記にはあまりにもその手がかりとなるような具体的な固有名詞が出てこないからです。たとえば、出エジプト記のなかでは、エジプトの王は単に「ヨセフのことを知らない新しい王」とか「ファラオ」とか「エジプト王」とだけ呼ばれていて、それがどのファラオのことを指しているのか、具体的な手がかりにかけるからです。
逆に、エジプトの側の歴史的な資料の方にも、出エジプトの事件を記したものが残っていないからです。従って、聖書の年代を確定するにはもともと十分な資料に不足をしているのです。

そこで、今回は一般に知られている早期説と後期説について簡単に触れるだけに留めたいと思います。早期説というのはおおよそ紀元前15世紀の半ば頃に出エジプトの事件が起ったとする説です。詳しいことはまた後で説明します。それに対して後期説は、出エジプトが起ったのは早期説よりももっと遅い時代、紀元前13世紀ごろとする立場です。
いただいたお便りでは紀元前1513年説を支持していらっしゃるようですが、早期説よりもさらに70年ぐらい早い立場ということになると思います。どちらかといえば早期説に近いのかもしれません。
ただ、いただいたお便りの年代計算には問題点がないわけではありません。その一つは聖書年代の出発点を新バビロニア帝国の滅亡の年を起点として時代をさかのぼっている点です。確かにおっしゃるとおり、新バビロニア帝国がペルシャ王キュロスによって滅ぼされたのは539年であると言われています。しかし、歴代の王たちの統治年数をそこから逆算していっても正しい年代を探り当てることはできないからです。というのは、当時の中近東の世界で年代計算をする際に、統治の1年をどこから数えるのかという問題があるからです。たとえば、日本の天皇の統治は新しい天皇が即位した年から1年と数え始めます。具体的には昭和天皇から今の天皇に代替わりをしたのは1989年の途中でした。こういう年代の数え方のシステムを知らないで単純に計算してしまうと、昭和元年から平成19年までには64年プラス19年で、合計83年間という、実際より1年多い歳月が流れてしまうことになります。代替わりが多くなればなるほど、年代の誤差が出てきてしまうのです。
では、イスラエルの王たちはどういう年代の方法でそれを数えていたのでしょうか。中近東世界の支配者の年代の数え方には、日本の天皇のような数え方もありました。しかし、即位した1年目を数えないで、次の新年から第1年を数える数え方もありました。さらには、暦の新年とは関係なく王が変わるごとにそこから1年1月1日が始まるという数え方もありました。いったい旧約聖書に出てくる王統治年代はどの方法で数えられたのか分かっていないのですから、単純に王の支配年数を足し算して計算しても正しい年数は出てこないのです。

さて、話を元に戻しますが、早期説の根拠として挙げられる第一の点は、旧約聖書列王記上の6章1節の言葉です。そこにはこう記されています。

「ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目、ソロモンがイスラエルの王になってから4年目のジウの月、すなわち第2の月であった。」

つまり、ソロモンの治世の4年目から逆算して480年目が出エジプトのときだというのです。では、ソロモンの治世の元年がいつなのかというのがもちろん問題になります。その場合のソロモン王の年代の算出は、お便りの中にあったような新バビロニア帝国の滅亡の年が起点なのではなく、周辺世界の歴史資料との整合性から導き出された9世紀半ばというのを起点に考えます。それ以上の詳しい計算法歩はここでは省略せていただきます。ソロモン王の統治から逆算して480年前ということだけを覚えて置いてください。
もちろん、早期説の根拠はそれだけではありません。そうして得られた時代設定が、当時のエジプトや周辺世界の歴史資料と整合性があるかどうかという問題も含めて議論されるわけです。

それに対して、それよりも遅いと考える後期説では、ソロモンの時代からの480年前という数字に最初から飛びつくのではなく、考古学的な裏づけから出発してもっとも可能性の高い年代を紀元前13世紀とするものです。その最も大きな根拠の一つは出エジプト記1章11節です。そこにはイエスラエルの強制労働力によって「ピトムとラメセスを建設した」という記述があります。ラメセス二世と関連付けその時代の出来事として出エジプトの年代を計算するものです。

時間の都合でこれ以上詳しくはお話できませんが、いずれにしても甲乙つけがたい二つの説が学説として唱えられているということを覚えておいてください。