2007年2月21日(水)十字架上の二人の強盗の違いは? ハンドルネーム 白さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム白さんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

「聖書を読んでいて、疑問に思うことがあるのですが、よろしいでしょうか。ルカによる福音書を先日読んでいて思ったのですが、キリストの十字架の場面にでてくる二人の強盗の違いはなんなのでしょうか。唐突な質問ですみません。あの箇所は今まで何度も読んでいるのですが、きょうはどうしてもそこが引っかかってしまいました。
なぜ、一人はキリストをののしり頑なに悔い改めることを拒み、もう一人はそれをたしなめ、その上キリストから救いの約束をいただいたのでしょうか。二人の強盗は同じように十字架につけられながら、どうして一人は悔い改めず、一人は悔い改めてキリストの救いを約束されたのでしょうか。取り留めのない疑問ですが、よろしくお願いします。」

白さん、メールありがとうございました。聖書の世界にはわからないことがたくさんあるように思います。似たようなことは、創世記に出てくるエサウとヤコブの双子の兄弟もそうです。こっちの話は先ほどの強盗の話とは違って、同じ父と母から生まれた双子の兄弟の話です。食べ物も一緒、寝るところも一緒、同じように育てられてきたはずなのに、二人はまったく違う歩みをします。一人は祝福の約束から離れ、一人は祝福の約束を受け継ぎます。しかも、創世記25章を読むと、二人がまだ生まれない先から、兄は弟に仕えるであろうと言われているのです。
こんな風に話だしてしまうと、ますます頭が混乱してしまうかも知れません。結論を先に言ってしまえば、根本にさかのぼって「なぜそうなのか」を問うことは人知の及ばないこと、人知をはるかに超えたこととしか言いようがないのです。
ローマの信徒への手紙の中でパウロはエサウとヤコブについて、こう記しています。少し長い箇所ですが、9章10節から16節までをお読みしましょう。

「リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

突き詰めて考えれば、これはもはや神の主権的な領域にかかわる事柄ですから、人間の限られた頭をもってしては、とうてい理解の及ばない事柄だと言うことなのです。
これに対して、なんだか納得行かないというのが、おそらく私たち人間の反応だろうと思います。この件に関しては、どんな牧師であれ、神学者であれ、聖書がこのように書いている以上の説明を加えることはできないのではないかと思います。
大変残念なのですが、白さんの素朴な疑問に対して、わたしたち人間は神に代わって答えを述べることは許されないのです。聖書に限らず、人生には人間に答えられないことがたくさんあるのです。

しかし、これでは番組の半分で終わって終わってしまいますので、少しだけ、イエスと一緒に十字架につけられた強盗についてお話したいと思います。
実は「強盗」と言う言葉ですが、白さんのメールに合わせて「強盗」という言葉を使わせていただきました。白さんが読んで疑問を抱かれたのはルカによる福音書ということでした。しかし、ルカによる福音書では、十字架につけられた二人のことを「強盗」とは呼んでいないのです。きっと白さんは何度も聖書を読んでいらっしゃるので、他の福音書の話と混同していらっしゃるのだと思います。確かにマタイによる福音書とマルコによる福音書ではイエスと共に十字架につけられた人物を「強盗」と呼んでいます。しかし、ルカによる福音書は「犯罪人」と記していて、「強盗」と特定しているわけではありません。
実はこの「強盗」と訳されている言葉は、文字通りの強盗ではなく政治的な極右テロリストを指す言葉でした。そもそも十字架にかけられるような犯罪と言うのは、民家に押し入る強盗と言うよりは、ローマ帝国に反逆する国家的な犯罪者でした。
『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』を書いたユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ヨセフスはしばしば熱心党の党員を「強盗」という言葉で呼びました。ヨセフス自身、ユダヤ戦争の初期の段階ではユダヤのためにローマと戦った人物でした。神の国のためには武力闘争も辞さないという点ではまさに熱心党そのものだったわけです。その後、このヨセフスはローマ帝国の側につき、このユダヤ戦争が熱心党の間違った熱狂主義によるものであることを暴くために歴史書を表したといわれています。

ところで、イエスが身代わりとなって釈放された人物がいました。バラバです。ヨハネによる福音書は彼のことを「バラバは強盗であった」(18:40)と記しています。同じバラバのことをマルコによる福音書は「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」と記しています(15:7)。つまり、ただの強盗なのではなく、都エルサレムで暴動を企てた政治的宗教的なテロリストだったのです。つまり、熱心党の党員だったと言ってもよいでしょう。先ほどのヨセフスは熱心党の人々が何人も十字架刑に処せられたことを語っています。
さて、熱心党の立場から歴史を見れば、十字架刑は栄誉ある死ということになるわけです。自分の命を献げてでもユダヤ国家と神の国のために戦った証とでもいえからです。ですから、熱心党の立場で福音書を読むとすれば、最後まで頑なに悔い改めることをしなかった強盗の方がかえって勇気ある戦士ということになるのでしょう。なぜ、一人の強盗は最後まで悔い改めることがなかったのかと言う答えを歴史的に求めるとすれば、彼は確信犯であったからです。自分の十字架に確信を持っていたからです。
その彼から見れば、イエスの十字架はまったくもって不可解なものとしか映らなかったはずです。罪状は「ユダヤの王」ですが、熱心党のように武力でローマの支配から民族を解放しようなどと企てもしていないからです。
他方、悔い改めたもう一人の強盗は、歴史的に見ればその生涯の終わりに熱心党の運動に疑問を持たざるを得なかった人物ということができるでしょう。
もちろん、なぜ、一人は熱心党の宗教的思想を最後まで持ちつづけ、一人はそれに疑問を抱くようになったのかは私たちにはわかりません。
ただ分かっていることは、熱心党の人々の十字架は神の国を引き寄せるどころか、自分たちの国を滅亡に導いてしまったと言うことです。そして、それに対してキリストの十字架はその忌わしい汚名にもかかわらず、イエスこそメシアであることを雄弁に物語っていると言うことなのです。
少し話が脱線してしまいましたが、この二人の違い、いかがでしたでしょうか。