2007年4月25日(水)経済格差について ハンドルネーム・Mさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・Mさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「最近疑問に思っていることについて質問させてください。
わたしはいわゆる『団塊世代』の子供に当たる世代に属しています。わたしたちが属する、今年25歳から35歳ぐらいまでの世代のことをロスト・ジェネレーションと巷では呼ぶようです。いわゆる超氷河期の就職難世代です。幸いわたし自身は定職についているのですが、自分と同じ世代の人たちには、いわゆるフリーターや派遣社員で頑張っている人たちが大勢います。
正社員とそうでない人たちとの賃金格差がどれくらいだか先生はご存知ですか。今でさえ格差があるのですが、定年退職する年齢になる頃には、その経済的な格差はおぞましいくらいになるそうです。
今朝も通勤電車の中から河川敷に建てられたブルーシートの住まいを眺めながら、これからますます広がる経済格差のことを思い、この国の将来はどうなるのだろうと不安に思いました。
キリスト教ではこのような経済的な格差が生じる社会をどのように考えているのでしょうか。それもまた神の御心なのでしょうか。それとも、罪の結果なのでしょうか。どう考えるべきなのか教えてください。よろしくお願いします。」

Mさん、お便りありがとうございました。いわゆるロスト・ジェネレーション世代のことについては新聞の特集記事で読んだりしてわたし自身も興味と関心を覚えています。確かに超就職難だった時代に就職期を迎えなければならなかったと言うのは、本人の責任ではありません。その結果である経済的な格差のしわ寄せを彼らだけが負わなければならないと言うのは気の毒としか言いようがありません。
そもそも、その世代の人たちに就職超氷河期が訪れたのは、日本の経済が長い期間にわたって低迷していたからに他なりません。その低迷の原因の一つはバブル経済の破綻と言うことが大きく影響していることは間違いありません。その他にもいろいろな原因が考えられるかもしれません。わたしは経済学の専門家ではありませんから、どういう仕組みで景気が低迷するのかわかりませんし、どういう対策で景気が上向きになるのかもわかりません。おそらく専門家でさえその仕組みを分析することは簡単なことではないのでしょうし、また、対策に至っては思い通りにはならないくらい複雑なのでしょう。
そんな複雑怪奇な経済の動きによって、ある人は富を手に入れ、ある人は貧困に喘がなければならないというのは理不尽なことのように思われます。

さて、経済の何たるかも知らないわたしが今回のようなご質問にどこまでお答えできるのかとても覚束ない気がします。ただ聖書と経済に関しては、二つのことは確かだと思います。その一つは聖書は人間の経済活動を前提にしているということです。神の国が完成し、復活の体に甦る時、今の時代とまったく同じような経済活動を必要とするのかは分かりませんが、少なくとも物を生産し、売り買いをして利益をあげることを聖書が禁じているとは思えません。むしろ場合によっては富は神からの祝福であるとも言われています。
もう一つ確かなことは、聖書はこの世の中には富んだ者と貧しい者がいるという事実を淡々と語っていると言うことです。「神から選ばれたイスラエル民族には貧しい者が一人もおらず、みんな祝福された富んだ者たちばかりである」などと理想的な社会像を現実と混同して語ったりはしていません。また、イスラエル以外の国で自分たちよりも豊かな国があれば、「それは皆、不正な蓄財の結果である」とも語ってはいません。経済活動がある限り、貧富の差が生じてしまう現実を聖書はそのまま語っているのです。
では、貧富の差が生じることはいけないことなのでしょうか。言い換えれば、聖書は万民が富の分配に公平に与ることを理想と掲げているのでしょうか。もしそうであるとするならば、自分が他の人より多く得た富を神からの祝福と考えることは罪深い人間の考えと言うことになるでしょう。他の人より一円でも多く持っていることは、罪人の証拠と言うことになるでしょう。聖書はそんなことを語っているようには思えません。
むしろ、貧富の差はあることが前提として受け容れられているように思えるのです。
もちろん、貧富の差が生じる理由には様々なことがあります。そして、そのすべての理由を聖書が是認しているとは思えません。不正な蓄財や搾取によって貧富の差が生じる場合があります。もちろん、聖書はその現実を語っていますが、そういう富のあり方を認めてはいません。
あるいは、怠惰が理由で貧しくなると言う場合もあります。その結果貧富の差が生じたとしても、聖書はそのような貧しさを同情的に語ったりはしません。むしろ、怠惰な者には勤勉に働くことを命じています。
しかし、この世の中に貧富の差が生じるのはそれだけが理由ではありません。もし怠惰や不正だけが経済格差の原因であるとするならば、貧富の差が生じるのは人間の罪だと断定できるでしょう。
しかし、人間の努力によっても防げない貧富の差があるのです。経済の動きはまるで生き物のようで、一人の人間が意のままに動かせるものではないのです。もちろん、国の経済政策を任されている者は、真面目に働く国民が衣食住に事欠くような貧富の差が生じないように、景気が上向きになるように努力しているでしょう。そして、その政策に失敗すれば、責任が問われます。しかし、それでも、一部の人間が経済を操れるほど経済の動きは簡単ではないのです。

キリスト教にとって貧富の差や経済格差が問題となるのは、むしろ、チャンスによって生じた富の分配の凸凹を、人間が意思をもってどう再分配するかという問題と、もう一つは、貧しい中にあっても満足する術をいかに身につけるかという問題です。
富の再分配と言うことに関しては、不正な富は別として、富は自分の努力によって得たものであれ、チャンスによって得たものであれ神の祝福です。神から与えられた祝福はその一部を神と隣人とのために使うと言うのがキリスト教の教えです。少なくとも神と人とを愛することを守るべき最高の戒めとして掲げている者にとっては、そのように富は用いるべきなのです。ただ、そのことことは強制されてすべきことなのではなく、自発的な愛からだけ出るべきものなのです。
貧富の差そのものを無くそうとすることも大切なことに違いありません。しかし、富んだ者がその富をどのように社会に還元していくのか、そのことの方がさらに大切な問題なのです。
年功序列ではなく、能力主義、実力主義ということが何年か前から日本でも重んじられるようになりました。能力のある者、生産性の高い者に、それに見合った富が行くというのは理にかなったことのように思われます。そしてそれは経済格差を生み出す原因でもあるかもしれません。
しかし、ほんとうに問題なのは、結局のところ人よりも多く得た富をどのように用いているのか、そのモラルが問われているのだと思います。