2007年7月18日(水)礼拝での楽器の使用は? 東京都 M・Tさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのM・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、こんにちは。番組を楽しみに聴いています。
さて、先日教会の礼拝についてのディスカッションがあり、改革派教会では礼拝に関する決まりごとはすべて聖書のみ言葉によって命じられたとおりに行うことがその基本であるということを伺いました。その場合、み言葉が明らかに禁じていることは、礼拝に持ち込まないことは言うまでもありませんが、み言葉によって明白に禁止されていないことがらや、明確に許可されていない事柄も礼拝に持ち込まないのが改革派教会の特徴であると聞きました。
それはさておき、改革派教会の伝統を受け継ぐ教会の中に、礼拝にオルガンなどの楽器を使用する教会と使用しない教会のあることを知りました。そして、その理由がただ単に音楽に対する趣味の問題ではなく、神学的な理由から出てきた違いであることも知りました。わたしとしては、今までに無伴奏の賛美を捧げたことがありませんので、どうしてそれがそんなに重要な事柄なのか、よく理解できません。
もし、よろしければ、そのあたりに関して教えていただけると嬉しく思います。よろしくお願いします。」

M・Tさん、お便りありがとうございました。お便りの中にもありましたように、確かに改革派教会の礼拝の伝統には詩編歌をオルガンの伴奏なしで歌うという伝統があります。もちろん、それをただの伝統と言ってのけてしまうのは、今でも無伴奏の賛美を捧げている教会の人たちには大変失礼なことかも知れません。無伴奏の賛美こそ神のみ言葉が命じていることだと考える人たちにとっては、それはただの伝統の問題ではなく、神学的な問題だからです。
では、ご質問にありましたように、なぜ、楽器を使用しない礼拝がそれほどまでに重要なのでしょうか。考えても見れば、神殿での礼拝に楽器が使用されていたことは旧約聖書を読めば明らかなことです。例えば、民数記10章10節にはこう記されています。

「また、あなたたちの喜び祝う祝日、毎月一日には、焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に向かってラッパを吹きなさい。そうすれば、あなたたちは、あなたたちの神の御前に覚えられる。わたしはあなたたちの神、主である。」

これは礼拝と関連した楽器の使用を最初に記した個所であるといわれています。もちろん、これに限らず、神殿という建物が建てられ、そこで様々な儀式が発展するに連れ、礼拝と楽器はきっても切れない関係になってきます。歴代誌下の29章25節以下には次のような記述を見ることができます。

「彼はダビデと王の先見者ガド、預言者ナタンの戒めに従ってシンバル、竪琴、琴を持つレビ人を神殿に配置した。この戒めは主が預言者たちによってお授けになったものである。レビ人がダビデの楽器を、祭司がラッパを持って立つと、ヒゼキヤは祭壇に焼き尽くす献げ物をささげるように命じた。焼き尽くす献げ物をささげ始めると、イスラエルの王ダビデの楽器の伴奏で、主の賛歌とラッパの演奏が始まった。会衆は皆ひれ伏し、賛歌がうたわれ、ラッパが響き渡り、これらの事はすべて、焼き尽くす献げ物をささげ終わるまで続いた。」

これらの箇所を読む限り、礼拝と楽器は密接に結びついていることが分かります。礼拝での楽器の使用をよしとする人たちは、こうした記述から肯定的な議論の論拠を引っ張り出してきます。

それに対して、礼拝での楽器の使用を不可とする人たちは、旧約時代の儀式礼拝と楽器との結びつきに着目して、このように論じます。つまり、旧約時代の礼拝は動物犠牲の奉献といったことが中心であり、楽器はそれと密接に結びついていたということなのです。新約時代に入って、動物犠牲が象徴していた罪の贖いという救いの業は、キリストの十字架での犠牲によって成就され、完成されたのですから、当然、神殿で行なわれていた動物犠牲を伴う礼拝はキリストと共に終わりを迎えます。こうした神学的な理解は、とくに新約聖書のヘブライ人への手紙の中に展開されています。今日、キリスト教会では動物犠牲を捧げない理由はそこから来ています。

さて、先ほど旧約聖書の中で、礼拝に伴って楽器が用いられた例を見て来ましたが、それらは、いずれも儀式的な礼拝と密接な関係を持ったものでした。つまり、一般的な神礼拝というよりは、動物犠牲の奉献を伴った儀式的な礼拝と楽器が結びついている例でした。
それで、新約時代の教会はもはや神殿での動物犠牲を伴う礼拝を守らない神学的な理由をキリストのうちに見出したように、それとまったく同じ理由で楽器を伴う礼拝も必要性を失ったと考えるのです。つまり、動物犠牲を伴う礼拝に付随して用いられた楽器は、本体であるキリストが現われて、動物犠牲が象徴していたものを成就した以上、もはや必要とされなくなったと考えるのです。
「霊とまこととをもって神を礼拝する」(ヨハネ4:23)新約聖書の礼拝には楽器はその役目を終えたと考えるのです。
さらに、そのことを論証するために、新約聖書での楽器の使用についての検証をします。確かに、新約聖書の中で礼拝に楽器が使用されたとする明確な証拠を見出すことはできません。そして、その理由はまさに先に述べたような神学的な理由によるものと断定するのです。

ところで、新約聖書が動物犠牲を廃止したのはキリスト論から出てきたことは疑いもないことです。しかし、キリスト教会が楽器の使用を止めたことについて、キリスト論と結びつけて論じている箇所は新約聖書の中にどこにも見出すことはできません。むしろ、ユダヤ教の会堂ではキリスト教に先立って、楽器の使用をしておりませんでした。もちろん、ユダヤ教の会堂で捧げられた楽器なしの礼拝に神学的な理由があったとは思えません。しかし、実際、彼らはキリスト論とは関係なく、犠牲も楽器もない礼拝を捧げていたのです。

キリスト教会が動物犠牲に関してはそれを廃止する明確な議論を、わたしたちは聖書の中にはっきりと見出すのですが、それと楽器との関係は推測的にしか論じることはできません。むしろ、ユダヤ人の会堂での礼拝が楽器を伴わなかったのと同じ理由で、キリスト教もその伝統を受け継いだのかもしれないという推測も成り立ちます。礼拝にふさわしい楽器を維持し、それを演奏する奏者を生まれたばかりのキリスト教会が持ち得なかったと考える方が、むしろ実際的な理由なのではないかという反論もないわけではありません。

以上のよう理由で、神学的な断固とした理由から楽器を礼拝の中で用いない教会と、楽器を用いないことに特別な神学的な意味付けを見出すことができないとして、楽器を伴う礼拝を捧げる教会が、同じ改革派教会の礼拝の伝統の中にあるのです。