2007年8月8日(水)聖書的な生き方とは ハンドルネーム ミナさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ミナさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を感謝してきかせていただいております。
さて、クリスチャンとしての生き方でもっとも大切なことは、聖書がなんと言っているかということをよく考えながら行動することだと聞かされています。何を信じるのか、どんな行動をとるのか、すべて聖書の言葉に耳を傾けながら判断していくべきだということです。
神のみ言葉を中心に据えるクリスチャン生活のありかたと言うのは大変よくわかるのですが、実際、そのとおりにしてみようとすると、なかなか難しい問題も出てきます。
例えば、新約聖書には信徒同士は清い口づけをもって挨拶を交わすように勧められています。ところが、日本の教会でそんなことをしたら大変なことになってしまいます。こういうたぐいのものは文化に属するものなので、聖書は聖書時代の文化を持ち込むことを強制しているわけではないと理解されているようです。したがって、それぞれの文化の挨拶の仕方で教会員同士が挨拶をすればそれでよいと考えられています。
しかし、何が文化で何がそうでないのか、というのはそんなに簡単に区別できないように思うのですがどうでしょうか。
たとえば、聖職者や長老は男子でなければなれない、と聖書が言っているのは、その時代の文化なのでしょうか、それとも時代や地域によって変わることがない恒久の定めなのでしょうか。
他にも例を挙げて考えると、聖書を基準に生きるということはそんなに簡単なことではないと思いました。
実際これらのことをどう考えていくべきなのか、教えていただきたくお便り差し上げました。よろしくお願いします。」

ミナさん、お便りありがとうございました。信仰生活のあり方をいつも真剣に受け止めていらっしゃるミナさんの姿を、お便りをお読みしながら思い浮かべました。
さて、ご指摘のとおり「聖書に立って物事を考える」という大原則は理解できても、それを実際の生活の中に当てはめて考えようとする時に、いろいろな問題が出てくることは避けることができません。それはミナさん自身が具体的な例を挙げてくださったとおりです。
それが一時的な命令なのか、恒久的な定めなのか判断に迷う時があります。あるいは、どこまでが当時の文化的な事柄に属する問題で、どこからがキリスト教的な問題なのか、簡単に判断することが難しい場合もあります。
あるいは、逆に、今目の前で起っている問題が、聖書の時代には考えられなかったということがらの場合もあります。例えば人工延命装置で生命を維持することは聖書に適っているかどうか、あるいはその逆に人工延命装置をはずすことは聖書から見て罪に当るのかどうか、聖書時代にはそのような装置は存在しなかったので、どちらの場合も聖書から直接の答えを引き出してくることはできません。

しかし、すべての場合について聖書に網羅されていないからこそ、信仰生活というのはある意味での緊張がいつでもあるのではないでしょうか。自分で考え、判断し、一歩を踏み出す、この緊張が聖書を基準とした信仰生活の楽しさでもあると思います。

さて実際には、何が聖書の教えであるのか、という判断に迷ってしまうということは、そんなにたくさんの例があるわけではないと思います。毎日を悩みぬいて、それでも何が聖書の教えであるかわからない生活を日々送らなければならないということはないはずです。大抵のことは聖書に指針が記されています。そして、各個人の判断でその聖書の指針を読み取ることができるものがほとんどです。そのように故人の判断で聖書の指針であるとはっきりと分かることについては、そのとおり従って生きるべきでしょう。
しかし、どうしても判断できない場合、同じクリスチャン仲間に聞いても答えがバラバラの場合…こういう場合にはどうしたらよいのでしょうか。

そういう問題に関しては、わたしはただ、自分ひとりで聖書と首っ引きになるのはあまり賢明な方法ではないと思います。聖書をわたしたちに理解させてくださるのは聖霊なる神の働きであると信じられています。この聖霊の働きなしには、わたしたちは聖書が何を求めているのか理解することはできません。そして、今のわたしに働きかけてくださっているのと同じように、クリスチャン一人一人に働きかけてくださっているのです。特に会議を通してより良い方向へと聖霊はわたしたちを導いてくださいます。原則的にですが、わたし一人の判断よりも、数多くの人々に神は働きかけて一致した見解へと導いてくださることを信じることが大切です。
もし、過去の教会会議などで、そのことについての判断がすでに下されていれば、まず、その判断を尊重することが大切です。自分の判断がそのクリスチャンたちの会議より正しいと考えることは傲慢です。
けれども、場合によってはどうしてもその結論に承服しかねるという場合もあるでしょう。宗教改革者たちの場合がそのケースです。その場合には自分自身の信仰的な良心を尊重することが大切でしょう。教会の会議は良心の主ではありません。

ミナさんが挙げてくださったような、教職者や長老は男性でなければならないのか、というような問題は、個人レベルの判断よりも、教会の会議の中で正しい判断へと導かれていくものであると考えます。

ただ、問題なのは、実際生活の中にはとっさに判断を求められるようなケースもあると思います。改めて聖書を読み返したり、ましてや、過去の教会会議の記録を読み直したりする暇がない場合です。そのような状況の中でも聖書に従って生きようとするのであれば、結局はどれだけ聖書の原則を理解し、蓄えているか、ということに尽きるのだと思います。そればかりは、きょうあす頑張ったからといって身につくものではありません。日々どれだけ聖書に親しみ、具体的な生活の中で聖書の原則に則ってどれだけ真剣に生きているかの積み重ねであると思います。決してあんちょこを丸暗記して覚えることのできるような簡単なものではありません。

結局のところ、自分自身が毎日聖書に親しみ、身近な問題の中で聖書の原則を当てはめること、それと他の人がどう聖書を読み、どんなふうに聖書の原則を捉えているのか、そのことを学ぶことに尽きるのだと思います。それさえ繰り返すならば、神の言葉である聖書からそんなに外れた結論を引き出してくることはないと思います。